ライブ動画配信サービス「ユーストリーム」が終了した(※写真はイメージ)
ライブ動画配信サービス「ユーストリーム」が終了した(※写真はイメージ)

 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

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 ライブ動画配信サービス「ユーストリーム」が終了した。IBM傘下のクラウドサービスに統合されたためである。

 ユーストリームはライブ動画配信のパイオニアで、2007年にサービスを開始した。だれもが動画を「生」で配信し、楽しむことができる現在のネット文化は、同社により基礎が築かれた。日本でも09年に流行が始まり、先進的なユーザーがこぞって参入した。しかしユーチューブ・ライブのような後続サービスに追い抜かれ、ついに消滅となった。

 流れの速いIT業界では珍しくないが、古参のネットユーザーにとっては複雑な思いを抱く話である。ライブ動画配信はいまではすっかり普及し、市場も拡大している。その中心は、ゲームプレイ実況のような若年層向け娯楽コンテンツだ。

 しかしライブ動画配信が出現したときには、この新たな技術は社会改革への期待と深く結びついていた。ユーストリームが注目されたきっかけは、米大統領選の演説中継である。日本も当時は民主党政権で、事業仕分けが中継され話題となった。どこにでもカメラが入り込み、なにもかも透明化される時代が来たとの意味で、「ダダ漏れ民主主義」なる言葉も生まれた。かくいうぼくも、シンポジウムから居酒屋の放談まで、遅い回線とパワー不足のアンドロイド携帯を駆使してやたらと中継を試みたものである。

 ユーストリームの退場はそのような動画への期待が終わりを迎えたことを示している。この失望そのものもまた繰り返されている。

 動画にかぎらず、情報技術はつねに社会改革への希望と結びついてきた。WWWもブログもSNSも、出現当初は新たな公共や民主主義の担い手として期待を集めていた。しかし普及とともに力を失い、単なる娯楽の場所に変わる。いまやネットはフェイクニュースと動画ばかりだ。

 昨年の米大統領選は、まさにネットの限界を感じさせた出来事だった。その翌年にユーストリームの名が消えることは、じつに象徴的に思える。ぼくたちはそろそろ、ネットが人間を賢くしてくれるという幻想から卒業しなくてはならない。

AERA 2017年4月17日号

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東浩紀

東浩紀

東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数

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