当時の池田内閣が所得倍増計画を提言した翌年の1961年、福岡市が「第1次総合計画(マスタープラン)」という都市計画を発表する。産業の基盤として打ち出されたのが博多湾沿岸部の臨海工業地帯化だった。当時、どちらが先に百万都市を達成するのか熾烈な競争下にあり、北九州工業地帯を有する北九州市を意識したプランだった。
●官ではなく民の街
こうした官主導の計画に、当時のオピニオンリーダーだったメディア人と知識人、若手経済人などを代表とする福岡市民が声をあげる。
「福岡が目指すべき都市像は、明治以降の近代化の過程で日本の大都市が追い求めてきた工業中心の生産都市ではない。文化・教育・環境を基盤とし、市民が暮らしやすい商業都市に切り替えるべきだと主張し、こうした市民の意見を行政が受け入れプランが大胆に変更されたのです」
そう語るのは、タウン情報誌「シティ情報ふくおか」の元編集長で街の歴史に精通する、特定非営利活動法人アジアン・エイジング・ビジネスセンター上席研究員で博士の佐々木喜美代さん。市民が都市計画に関わり、工業都市から商業都市への変換を実現したことが「民の街・福岡」の決定打となり、その成功体験が、その後の街づくりの基礎となったと話す。
やがて高度経済成長と共に天神中心部には、近代都市を象徴するビル群が乱立。その周辺の「親不孝通り」や「新天町アーケード街」には多くの若者が集まり、天神は「人・モノ・情報」の集積地となる。
しかし、バブルが崩壊し、景気低迷の時代に入ると天神の様子も一変。00年代に入り、福岡を代表するデパート岩田屋など地場資本が衰退するのと時を同じくして、天神の街からライブハウスや喫茶店、本屋などカルチャーを発信する場が消えた。
「福岡にとってのサブカルは、個人経営のちょっといかしたショップ(店)なんです。セレクトショップや美容室、カフェなど、あそこにいけば誰かに会えるんじゃないか。そんな独自のたまり場を維持する余裕が、今の天神にはない。商業ビルのテナントの多くが地場資本ではなく東京や大阪などから進出した企業で占められています」(佐々木さん)
●「七社会」の存在感
追い打ちをかけたのが東日本大震災だった。
「それまで福岡の文化振興に巨額の寄付や助成をしてきた九州電力が窮地に立たされると、そうした振興基金が一切ゼロになりました。これは対外的に『文化』を売り物にしてきた福岡にとって大打撃でした」
そう語るのは、今年で創立51年を迎え、福岡の有名企業と文化界によって作られた「福岡文化連盟(通称・文連)」の関係者だ。
61年のマスタープランで商業都市への道に舵を切った福岡だが、同時に文化・芸術の発展こそが西日本一の文化都市への不可欠なビジョンだった。そこで福岡市は、1770人収容の大ホールを有する「福岡市民会館」の他、6カ国語の同時通訳ブースを持つ先進的な「福岡国際会議場」を建設。音楽、演劇、美術など文化振興に力を入れる。市内最大規模の「福岡市民芸術祭」は、今年で53回目を数える福岡を象徴するイベントに成長。こうした福岡の文化振興を担ってきたのが「文連」と、62年に設立された「九州文化推進協議会」だ。