「食品卸業を営み、中洲の飲食店に乾きものや食材を卸していたふくやにとって、中洲の発展は家業の繁栄と直結しています。先代の中洲の街への感謝は極めて深いものがありました。中洲のためには何でもするし、納税こそ経営者ができる最大の貢献だと、節税をしない父でした」

 ふくや4代目社長の川原正孝さん(66)は言う。

●山笠への憧れがあった

 実行委員長として女神輿を取り仕切る仁階堂亜樹さん(46)は、女神輿に参加して18年。高校を卒業して中洲のスナックで働き始めた89年、初めて女神輿を見た。祭りの衣装を隙なく着こなした中洲の姐さんたちに憧れ、参加するようになった。

「博多を代表する山笠は男性しか出られん神事。子どもの頃から山笠への憧れがあったけん、女が出られる威勢のいいお神輿は気持ちがよかったんですよね」

 19歳の仁階堂さんが憧れた当時、女神輿を担いでいたのは全員中洲で働く女性たちだったが、現在は中洲関係者は1割程度だという。

 高級なキャバレーが軒を連ね、中洲が「大人の社交場」とされた60年代から70年代頃にかけて、中洲の就労人口は3万人とも言われた。2016年10月現在、博多区保健所に届け出のある飲食店は、中洲1丁目から5丁目までで約2500軒。中洲で働く人は1万~2万人とされる。

 前出の川原さんは50年に中洲に生まれ、福岡高校を卒業して神戸の大学に進学するまで中洲で育った。物心ついた時の街は歓楽街と生活がごっちゃになった有機的な雰囲気だったことを覚えている。次第に高級キャバレーが相次いで出店し、入り口にエスカレーターがついているようなビルが現れる。当時、中洲で働く女性たちはエレガントで美しく、選ばれた女性たちという印象だったという。

 仁階堂さんが中洲で働き始めた89年はバブルのピークだ。中洲が中洲らしさに満ちていた最後の時期である。

 女神輿に参加する中洲の女性が少なくなった理由を、中洲まつり実行本部長で博多人形店松月堂専務の比山善博さんは「景気が悪くなりどの店も余裕をもって女性を抱えられなくなって、女神輿にお店のスタッフを参加させる余裕がないのが原因」と話す。

 女神輿の担ぎ手は、都市銀行や生命保険会社の会社員、事務職、主婦など、さまざま。介護職として働くさくらさんは、太宰府市在住の67歳。女神輿を担いで10年以上になる。

次のページ