ディランの曲が、聴き継がれる詩なのは、そこにあいまいさ、遊び、もっと言えばテキトーさがあるからだ。

Once upon a time you dressed so fine

 大ヒットシングルの「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、こう始まる。すぐに気づくのは過剰なほどの言葉遊び。タイム、ダイム、プライム/コール、ドール、フォール/ラウド、プラウドと、やり過ぎなくらいに韻を踏む。

 完全に遊んでいる。無理筋でもつなげる。すると、なにが起きるか。あいまいさゆえに、意味が広がる。視界が開ける。

「ミール(食事)→ディール(取引)→スチール(盗む)→コンシール(隠す)→フィール(感じる)」

 この言葉遊びだけを切り取れば、「資本主義の歌?」と思う聴き手だって、実際にいた。もちろんディランはそんなことを意識していないだろう。だが、作者の手から遊離するのが、詩の要件でもある。

 歌のリフ部分では「How does it feel?」を繰り返す。

 食事にも事欠くようになって、ホームレスになって、だれも知り合いのいない境涯に落ちて、「rolling stone」のようになって、どんな気がする?

 零落した成功者を冷笑する歌のようにも、世間というものの底意地悪さを歌っているようにも、あるいは、自嘲とも、聴ける。日によって、異なるイメージが膨らむ。

 かくいう筆者が、最近、個人の事情に引きつけ、「超訳」して歌っている。

「昔は余裕かまして生きていて、上から目線、偉そうに酒なんかおごってたな。今じゃでかい口きけず、連載も終わりで、いまだ無名の根無し草。どんな気がする? どんな感じだ? 転がる石みたいに落ちぶれて、どんな気分だよ、おい?」

 それが、けっこういい感じに生きてるぜ。転がる石、だからなんだ? 気に入ってんだ。ゆっくり、行くんだ。

 そう、自分で自分を鼓舞する。誤訳、かもしれない。しかし、ディランの詩には、「誤解の自由」を許す深さがある。

「偉大であるとは、誤解されるということである」

 アメリカの偉大な詩人、エマソンの言葉である。

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