「働けるなら、それ以上望むものはない。こういう時代で、この年で、当たり前とは言えない。『働ける』ことこそ、人が求めるべきものだ」
ディランが、まだ45歳のときの発言だ。
労働だけが、人間を鍛える。他者とまじわり、他者から必要とされ、承認される。「生きていてよい」と、自分で自分を許す。その「縁(よすが)」となるのは、労働をおいて、ほかにない。労働こそが、人を人たらしめる。みんな、石を切らなければ駄目なんだ──。
そろそろ、うるさくなってきたことだろう。こういう文章にいちばん足りないのは、<沈黙>だ。理屈を言いすぎる。
ポピュラーソングも、小説や詩などの文学も、読者/聴衆の理解力に訴える部分が大きいのは、当然である。しかし同時に、ほんものの文学、ほんものの音楽は、その眼目とするところで、読者/聴衆の理解など、断固として拒絶していなければ、駄目だ。
言葉には、伝達記号以上の性質がある。
そういう信仰に、ほんとうの詩、文学、音楽は支えられている。もっと<沈黙>を。
●聴くたび違うイメージ
ディランの詩には、人を黙り込ませる力がある。なにを歌っているんだろう? そう、考えさせる。また、聴く。違うイメージがわく。なんど聴いても、飽きない。というより、繰り返し聴くことでしか、意味をなさない歌。
冒頭の問いに戻ろう。ディランの歌は、文学か? ディランは、詩人なのか。
昔の人が云ふことに
詩を書けば風邪を引かぬ
(略)
僕は風邪を引きたくない
おまじなひには詩を書くことだ(井伏鱒二「冬」)
筆者は、詩の定義を、知らない。しかし、風邪を引いたとき、心の洞穴に風が吹いているとき、答えが見えなくなったときに、歌いたくなる詩、聴きたくなる詩は、よく知っている。
その答えは、風の中。風が知ってるだけだ、と。(朝日新聞記者・近藤康太郎)
※AERA 2016年10月31日号