法事や葬式にしても、本来は仏教的な儀式ではなく、単なる伝統習俗です。それが、江戸幕府が民衆を管理、統制するために檀家制度を導入したことでおかしくなった。お寺が発行する証明書を持っていないと隠れキリシタンとみなされて迫害されるので、強制的に檀家にさせられたに過ぎません。お寺は檀家からお金を集めて、法事や葬儀をすれば潤う仕組みになった。修行を積む僧は少なくなり、仏教界は精神的な指導力を失いました。檀家制度が日本仏教を骨抜きにした元凶の一つです。

 だから、檀家離れは仏教再生につながると期待します。法事や葬儀にしても、仏教の教えとは違うところで「お寺の仕事」として誤解されている。その思い込みを排して、お墓、骨といった物質への執着をなくせば、「終活」などしなくてよくなります。自分の体は消滅したら自然界に返るものであり、死後の骨は自分ではない。後世にお墓を継承する必然性もありません。残された人がやりたいように、任せればよいのです。

 ただひとつ、注意すべきは「しなくてもいい」という観念にもまたとらわれないことです。仏教的ではないという理由をタテに墓じまいを持ち出し、親戚といさかいが生じるようならいけません。その場合、周囲の価値観が変わるのを待って、将来はフェードアウトしていけばいい。執着することをやめて、もっと自然界の法則から生と死を見つめてみましょう。そうすれば、悩みが少しは軽くなるはずです。(構成/編集部・作田裕史)

AERA 2016年8月15日号