プリーモ・レーヴィはトリーノで生まれ、死ぬまでトリーノで暮らした。そして父のチェーザレも子供の時からトリーノで暮らしていたので、レーヴィはトリーノの作家というイメージがあった。そのため彼の祖先の地がベーネ・ヴァジエンナであることは知っていたが、そこを訪ねるのは何となく後回しになっていた。この町はピエモンテ州の南部にあり、人口は3千ほどだが、鉄道が通っていなくて、交通の便が良くないという点もあった。

 訪ねてみると、ベーネ・ヴァジエンナは落ち着いた雰囲気の町だった。古代ローマ時代から栄えていたのだが、今はイタリアの田舎町という風情である。2階建ての建物が多く、中心街は建物の1階部分が引っ込んでいて、歩道になっている。つまり歩く人の頭上が建物の2階部分で、雨や雪が降っても濡れずに歩けるようになっているのだ。これは開廊(ポルティコ)と呼ばれているのだが、全体に落ち着いた雰囲気をかもし出している。
 町は小さくて、簡単に歩いて回れる。町の中心部に広場があり、市庁舎と教会が並んでいる。教会は後期バロック様式のきれいな建物で、左脇に煉瓦造りの立派な鐘楼がある。広場の奥にはゴシック様式の尖頭アーチをモチーフにした、堂々たる宮殿建築が立っている。ヴィッラル侯爵が14世紀頃に建てたもので、その隣りにバロック様式の3階建ての建物があり、その左隣りにやはり3階建ての建物がある。それがレーヴィの祖先の家だった。説明書きがあるので、すぐに分かった。

 レーヴィの祖先は銀行を経営していたと研究書で読んでいたが、田舎町なので、小さなものなのだろうと勝手に思い込んでいた。ところが町の中心にそびえる堂々たる建物だった。彼の祖先は右隣りのバロック様式の建物も所有していたという。町を支配するような大金持ちだったのだ。そうしたことは予想していなかったのでびっくりした。

 町を歩いていると、親切な人が、町の歴史に詳しい研究者を紹介してくれた。その研究者から、レーヴィの家の持ち主を紹介され、中を見せてもらうことになった。建物の外壁はクリーム色とえび茶色できれいに塗装され、中庭もきちんと整備されていた。道に面した建物以外に、中庭の反対側にも建物があって、部屋数が20以上ある、かなり大きな家だった。内部もきれいで、古い家具がきちんと並べられ、壁には絵が飾られていたが、本棚もたくさんあって、現在の持ち主が読書家であることが想像できた。

 1階の片隅に小さな部屋があったが、そこでレーヴィの祖先が首つり自殺をしたと教えてくれた。経営していた銀行が破産状態になったためだった。確か飛び降り自殺をした人がいたはずだが、と訊いてみたが、よく分からないとの返事だった。予告もなしにやってきた外国人の私に、内部を快く見せてくれた親切には感謝しなければならなかった。

 トリーノに帰り、研究書を読み返してみると、銀行の経営危機で、1887年に4男のジャコモ・レーヴィが自宅で首つり自殺をしていた。そして翌年、プリーモ・レーヴィの祖父である長男のミケーレ・レーヴィが3階から飛び降り自殺をしていた。だがそれはベーネ・ヴァジエンナではなく、トリーノで起きたことだった。妻の実家に金策に行き、うまくいかなくて、窓から飛び降りたとのことだった。

 プリーモ・レーヴィは短編集『周期律』の中で、ただ一行、この祖父について書いている。「私の祖父は祖母の浮気に絶望して自殺した、という噂が流れた」この部分はやや冗談めかして書いてあるので、読者はこれが本当のことなのか判断がつかないまま読み飛ばしてしまう可能性がある。レーヴィはそのようにしか、祖父について書けなかったのだと思う。彼にはミドルネームがあり、それは祖父の名前から取られたものだった。つまりプリーモ・ミケーレ・レーヴィというのが正式な名前なのだ。このことから、彼が祖父の死をまったく意識していなかったとは考えにくい。

 ベーネ・ヴァジエンナの人たちは、町がプリーモ・レーヴィの祖先の地であることを誇りにしている。レーヴィ家の建物の前にはかなり詳しい説明書きがあり、裕福な銀行家で、当時は高価であったチューリップの球根を多数買って栽培していたため、「チューリップのレーヴィ家」と呼ばれていたと書いてある。レーヴィ家は銀行の破綻により、自殺者を出し、家族は散りぢりになったが、ベーネ・ヴァジエンナを訪れる人は、そうしたことは知らずに、チューリップを愛していた人たちというイメージを持って帰るほうが好ましいのかもしれない。そしてそれは、レーヴィの人柄にもふさわしいと思えるのである。