証言として並べられていく物語の中では、様々な社会問題が混ざり合っている。体罰や性暴力が信仰の名のもとに正当化された宗教団体で育ち、同じ教徒の恋人と「俗世」に飛び出してきてDV被害を受け、恋人を殺して収監された先で朝比奈ハルと出会った女性。戦前生まれで、コロナ禍について「街に出ても人が少ないんは、特に外国人が少ないんは、ええよな」と口にする、朝比奈ハルと同郷の男性。朝比奈ハルに連れられて東京に出てきたものの、彼女のようになれない自分に倦み、何者かになることを夢見て革命家の男と恋に落ちた女性。金融機関に勤め、朝比奈ハルに莫大な融資をして出世し、家にはほとんど帰らずに仕事と買春に明け暮れてバブル崩壊を迎えた男性――彼らは、年月を経て自らの倫理観をアップデートしている部分もあるが、そこについては無自覚なまま証言を終えているケースも多い。

 それは、これらが葉真中顕の物語ではなく、彼らの物語だからだ。

 葉真中顕は、「物語」というものが持つ恣意性を見つめ続けている作家だと、私は感じている。作中に「お金は本質的に自由で平等である」「お金は善悪を判断しない」という言葉が出てくるが、彼は、「物語が本質的に不自由で不平等で、善悪を恣意的に判断するものである」ことを認識しながら、物語を紡いでいると思うのだ。

 そうした物語を書く上では、「安全圏」などどこにもない。どれだけ登場人物の物語に寄り添おうとしたとしても、何を書くか、書かないかということは、恐ろしいまでに作者自身を炙(あぶ)り出してしまう。

 そしておそらく、葉真中顕は、社会問題について多くの時間と労力をかけて取り組んできたからこそ、一人の人間がすべての問題に対して常に最新の倫理観にアップデートすることなど不可能であることを知っている。無自覚に人を踏みにじってしまう可能性を見つめ、自分を疑った上で、それでも物語を書き続けるという覚悟を持っている。

 本書において、複数の視点から「朝比奈ハル」という人物への様々な解釈が提示されるが、それらが収束することはない。共通の確固たる事実など存在しないからだ。それぞれの物語の中で咀嚼(そしゃく)された断片だけを与えられたとき、読者が「読者自身の物語」の中で何をつかみ、どう咀嚼するか――つまり、この私の書評からも、既に多くのものがこぼれ落ちているということである。読み手もまた、何を読み取るかによって炙り出されてしまうのだ。

 本書を未読の方は、ぜひ、ご自分の目で何が書かれているか、書かれていないかを読み込んで欲しい。