『そして、海の泡になる』葉真中 顕 著
朝日新聞出版より発売中

 ここ数年、作品における「ご都合主義」というものについて考えている。

 登場人物が物語の展開のため、あるいは著者の主張のために、本来なら取らない言動をさせられていないか――中でも特に気になっているのは、社会派ミステリにおいて、著者自身が社会問題を批判したいがために、登場人物に倫理的に問題がある言動をさせていないか、という点だ。

 そもそも自分が書く際に意識したいと考えてきたことだったが、やがて読むときにも気になるようになってきた。主人公が「正しい倫理観」の人間で、差別的な言動をする脇役を批判しながら物語が進んでいく――モヤモヤが次々に斬られていくのだから読んでいて快感はある。だが、だからこそ、主人公の「正しさ」から漏れている部分、主人公が認識していない隠れた差別意識が誰にも斬られることなく放置されて物語が閉じることに引っかかるようになった。そして同時に、ここに書き手が本質的に逃れえない「物語の恣意性」を感じ、恐怖を覚えるようになったのだ。

 ここには、書き手が視点人物と同一視されがちだという問題も関わってくる。もちろん登場人物が創作された存在であり、そのまま書き手と重なるわけではないことは読者も承知している。それでも、地の文で書かれる視点人物の心情が作者の見解と重ねられる向きは多かれ少なかれある。

 だから、作者は物語に倫理的に問題がある言動をする人物を登場させるとき、「言い訳」がしたくなる。私は、この人の言動に問題があるとわかっていますよ、これは私自身の倫理観ではありませんよ、という表明――これを私は「安全圏」に入ろうとすることだと考えている。

 葉真中顕は、この「言い訳」をしない。正確には、「言い訳」をしても意味がないと知っているのではないか。

 本書は、バブル期に個人として史上最高額の負債を抱えて自己破産し、「北浜の魔女」と呼ばれた朝比奈(あさひな)ハルを巡る物語だ。全編が記事や証言で構成されており、地の文がない。つまり、すべてが地の文だとも言える。

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