本書は、その寿町に住むさまざまな人にインタビューして、町そのものを描きだす試みだ。これまでの諸作、『東京タクシードライバー』や『東京湾岸畸人伝』と共通しているのは、すこぶる「人間的な」取材ぶりである。たとえば本書の冒頭を読まれたい。最初の頃、一歩、寿地区に足を踏み入れては、滞在時間数十分で退散することを繰り返した、と著者は書いている。「この街特有の臭気」に慣れなかったと言うのだ。あるいは、自分の未知なるものと出会うとき、「怖い」という感情がこみ上げてくることを、この著者は正直に書く。これまでもそうだったし、本書でもそうだ。そういう皮膚感覚に近いものを、著者はさりげなくあちこちに置いていくので、それらに触れるたびにほっとしたものを感じる。

 少しだけ脱線することを許してもらうならば、『東京湾岸畸人伝』の第三話「馬堀海岸の能面師」を読んでいたとき、思わず噴き出してしまった箇所がある。能面師・南波寿好(なんばじゅこう)の波瀾に満ちた生涯を描きだす章で、興味深いことの連続だからそれだけで読みごたえたっぷりなのだが、154ページを開いた途端、おいおい、ホントかよと、思わず噴き出した。それは、すごいなあ、凝りないなあという南波寿好に対する感嘆であり、この能面師をもっと好きになるくだりでもある。ページを開いたらその事実がいきなり目に飛び込んでくるこの構成もいい。文庫にしたとき(『不器用な人生』に改題)、その字組みが変わってしまっていたら残念だが、それは確認していない。

 話を本書に戻せば、ドヤの管理人が役所の承諾を受け、ギャンブル依存症やアルコール依存症、あるいは認知症の人の金銭管理もしているとのくだりも興味深かった。あとで揉めないように、各自の名前を書いた封筒に保護費を入れて保管し、出納(すいとう)の際には本人の目の前でその様子をビデオに録画するんだという。特にアルコール依存症の人には現金を渡さない配慮をしているようだ。たとえば銭湯に行きたいと言ってきたら常備している入浴券を一枚だけ渡す。アルコール依存症の人の多くは一滴でも飲めばブラックアウトするまで飲み続けるからだという。

 興味深いことは他にもたくさんあるが、思い出したこともある。「ホームレス歌人」公田耕一(くでんこういち)が住んでいたのがこの寿町であったことだ。そうか、寿町だったのか。公田耕一は忽然と姿を消してしまったけれど、しかしいまでもそのうたとともに私たちのなかにいる。いま、そのことを思い出した。