最初の一行を読み始めた瞬間から、その声が体の中にするすると入り込んできて、そのまま最後の一ページまで、その声が語る戦場や夢をともにさまようことになった。

 夫と農場を営んでいたコンスタンス・トムソンは、男性兵士「アッシュ・トムソン」として戦闘に参加する。「わたしはつよくてあのひとはつよくなかったから」農場に残してきた夫のバーソロミューとは、ときおり手紙のやりとりをしているが、バーソロミューとは違って、彼女は文章をあまりうまく書くことができない。難しい単語を身近な柔らかい言葉に言い換えていくような、日本語訳ではひらがなが多く使われる独特の文体=声が、この小説のなにより際立つところだ。

 前作『優しい鬼』でも、男性である作者は女性の語りを用いていた。祖母の話を聞いて育ったという作者のエピソードを知ると、人が誰かに物語ることの根底にある力がこの小説に確かに生きていると感じる。

 たどたどしく、表面はやさしく聞こえるその声が語る戦場はしかし、凄惨である。彼女が進む足下は死体の山だ。そこら中に転がり、木や柵に引っかかっている、ばらばらになった体の部分。非人間的なその状況にもほどなく慣れ、麻痺していく感覚はあまりに残酷だ。南北戦争は、近代的な兵器が初めて本格的に使用された戦争である。それまでの人間の能力を超えて、大量に人が死に、被害も甚大だった。戦闘に参加した女性は、実際に数百人単位でいたようだ。その史実に着想を得て、この小説は書かれた。

 しかし、コンスタンスが従軍するようになったいきさつは、詳しくは語られない。母が死んだ経緯や父親は不在らしいことも、徐々に語られてはいくものの、つなぎ合わせてもあちこちに隙間が残る。いくつかの地名や人名は出てくるが、詳しい戦況や全体像が示されることはない。時間の経過も曖昧で、「わたしたちの頭のなかでその何日かは何週間かだった」「その何週間かは何年かだった」と語られるとおり、終わりのない悪夢のような感覚が続いていく。

 凄惨を極める戦場で、裏切りや負傷や極限の疲労の中で、拷問のような扱いを受ける瘋癲院で、コンスタンスは、亡き母と会話し、何度も夢を見る。夢と悪夢に等しい戦場を往還しながら、過去の場面、遠い記憶が、よみがえる。

 母との会話とともに、バーソロミューに手紙を書き、返事がくること、いつか夫の元に帰る希望だけが、彼女を支えている。コンスタンスに花を贈り手紙を書くくらいしか取り柄のなさそうな彼とのエピソードは、どこまでもやさしく愛しく、小説の中でそこだけ光が差してくるように思える。

 小説全体が、夫へ向けて書いた手紙のようにも、亡き母へ向けた語りかけのようにも響く。何度か、手紙や紙に関する印象的な場面がある。薄く破れたり燃えたりする紙が、文字を書いて人の存在や愛を残すこともできる。

 戦場には、黒人や中国人もいることが書かれているし、それから、女もいる。コンスタンスと同じく男のふりをした兵士と、互いに視線を交わし合う。子供を失った女たち、夫が戦死した看護婦、上官の妻。女同士ゆえのささやかな連帯が描かれるが、深く傷ついた心や染みついた恐怖が、それを壊しもする。亡き母が言い遺した「あんたもいつかあんたのこわがる心に見つかるよ」「あんたの気もちをシワくちゃにちぢめるんだよ」という言葉が、重く響く。

 この小説に描かれているのは、戦争の残虐さだけではない。あらゆる暴力、支配、抑圧が、女性たちや弱いものを苦しめ続けている。戦場からやっと離れても、そこには別の地獄が待ち受けている。

 戦場から農場への帰還の途中で出会った老人は、参加した前の戦争(独立戦争)を美化して語る。コンスタンスは、それらの物語の中では女は聖者や天使として描かれることに違和感を持っているが、老人が新しい戦場の現実をわかっていてもなお物語を語ろうとしていたことを知る。

 物語は、その人がその人であることをつなぎとめるもの、その人にとって必要な現実であり記憶である。どの部分が事実で、嘘だと語られることは本当に嘘なのか、コンスタンスが男性のふりをしているように、唯一の真実がいつでも見えるわけではない。

 上官は戦争の前の自分の人生について「だれか他人の人生にぞくしているような気がして、じぶんのものだと実感できない」と話し、亡き母は「ひとつの話を語りはじめてべつの話でおえるのが好き」で「物語をぬいあわせ」ていた。そこには、いくつもの声が響く。

 戦争や暴力が、それに慣れることが、いかに人間性を奪うか、戦争や暴力に傷つけられ、奪われた人たちは、どう生きてきたのか。生きていくために、彼らのために語らなければならなかったこの声を、わたしは忘れることはないだろう。