大正12年1月創刊の「文藝春秋」。高松市菊池寛記念館蔵
大正12年1月創刊の「文藝春秋」。高松市菊池寛記念館蔵

 菊池の人生が好転するのは京大卒業後、上京して一高の同級生である芥川や久米正雄の「新思潮」に作品を寄せてからである。少しずつ名も売れ、大阪毎日新聞・東京日日新聞に連載した『真珠夫人』が大きな話題となり、人気作家の仲間入りを果たした。

「祖父にとって、一高の同級生であった芥川や久米、そして破天荒だが何かにつけて世話をした直木は無二の親友でした。芥川はライバルでもあったし、文藝春秋社でいろいろとお世話になっていました。その親友の名を世に残すために彼らの名をつけた芥川賞、直木賞という文学賞を創設したのです」

 創設時はどちらも新人賞で、自分がお金で苦労したこともあり、これから世に出る作家には金銭的な苦労をしてほしくないという願いがあった。さらに菊池は大衆文学の地位向上を願い、純文学の芥川賞と大衆文学の直木賞を並べ、同列であると世間に印象付ける狙いもあった。とくに芥川は特別だったようで、「芥川と自分とは、十二、三年の交情である。(中略)僕が芥川と交際し始めたのは、一高を出た以後である」(「芥川の事ども」から)など、芥川に関する記述を数多く残している。

 夏樹さんにとって祖父菊池はどんな存在だったのか。

「私が2歳のときに亡くなっているので直接は知りません。1歳半ばのときに祖父に抱かれた写真が残っているので、記憶はありませんが、祖母の包子(かねこ)や母からの話で耳にしていることはあります」

 菊池は子煩悩、孫煩悩だったようで、夏樹さんが生まれると、30分も1時間も寝顔をじっと見続けることもあったそうだ。菊池は夏樹さんに何かを託したのかもしれない。その思いが伝わったのか、夏樹さんは文藝春秋に入社した。

 夏樹さんの大学卒業の前年、雑司が谷の自宅に当時、文藝春秋社長の池島信平氏がやってきた。バンドに熱中して、アルバイトで稼ぎもあり、さらにフランスへの留学も考えていた夏樹さんに池島社長は文藝春秋の入社試験を受けないかと話した。

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