ライター・永江朗氏の「ベスト・レコメンド」。今回は、『ミシンと金魚』(永井みみ、集英社 1540円・税込み)を取り上げる。

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 ぼくの父は晩年、思ったことを何でも口に出した。耳が遠いから大声で。認知症の影響だった。飲食店で「百貫デブだ」と居合わせた客を指さしたときは、付き添っていた妹や姪がかなり慌てたらしい。亡くなって9年も過ぎると笑い話だが。

 永井みみの『ミシンと金魚』は、認知症の高齢女性が自分の人生を語る長編小説である。言葉のリズム、テンポが良く、声に出して読むうちに、認知症高齢者の脳内に入ったような気持ちになってくる。作者は56歳の現役ケアマネジャー。本作ですばる文学賞を受賞した。

 語り手は安田カケイ。このカケイばあちゃんの人生が壮絶なのだ。箱づくり職人だった父はDV男で、母はカケイを産んですぐ死んでしまった。元女郎の継母は幼いカケイを薪で殴った。カケイは大型犬「だいちゃん」の乳を飲んで育った。犬が親代わりって、ほんとうか?

 結婚したものの、夫は借金をつくって蒸発。カケイはミシンを踏む内職仕事をしながら、息子の健一郎を育てた。やがてカケイは女の子を産み(夫は蒸発したのに)、道子と名づける。カケイにとって、夢中でミシンを踏んでいるときだけが、どん底の自分を忘れられる幸福な時間。夢中でミシンを踏むカケイのかたわらで、幼い道子が遊んでいる。水を張った火鉢に入れた金魚を、ズックの靴ですくって見せる。「かあしゃん」「きんとと」と。ところが……。

 カケイは息子が自殺したこともすぐ忘れてしまい、嫁に呆れられている。複数のヘルパーたちを、だれかれかまわず「みっちゃん」と呼ぶ。遺産はみっちゃんにあげるつもり。「みっちゃん」は道子の呼び名だ。にぎやかで悲しい物語。

週刊朝日  2022年3月11日号