伊能忠敬像 千葉県香取市伊能忠敬記念館所蔵
伊能忠敬像 千葉県香取市伊能忠敬記念館所蔵

 日本で初めての日本地図が完成して200年を迎えた。実測して作り上げ、世界に衝撃を与えた地図の完成度と、日本全土を歩いた伊能忠敬の偉大さを、子孫と関係者に聞いた。

【写真】量程車(国宝) 地上測量の器具

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「チュウケイ先生は、純粋に地球の大きさを知りたかったのです。その願いをかなえるため蝦夷まで歩いて測量したことがきっかけとなり、日本地図を作ることになりました」

 そう話すのは伊能忠敬(ただたか)から数えて7代目にあたる子孫で画家の伊能洋さん(87)である。伊能家の人々は、忠敬のことを親しみをこめて「チュウケイ先生」と呼ぶ。

 2021年は伊能忠敬が半生をかけて作った「大日本沿海輿地全図」が完成して200年を迎えた年であり、さらに深川の富岡八幡宮に忠敬の銅像が建って20年と、大きな節目の年となった。

 忠敬は日本で初めて実測して日本地図を完成させた。教科書にも書かれているので、ご存じの読者も多いだろう。

 忠敬は日本地図をどうやって完成させたのか。実は忠敬が日本を測量したのは、先に紹介したとおり、日本地図の完成が当初の目的ではなかった。地球の大きさを知るという疑問を解決することがきっかけだった。

「実は九十九里の網元の子どもだったチュウケイ先生は、毎日星を見て天文や宇宙に対する夢を育んでいたのです」(洋さん)

 しかしすぐに行動を起こすわけにはいかなかった。忠敬にはいわば前半と後半の人生があり、前半の人生には測量とは全く関係ない商人としての仕事があった。

 忠敬は17歳のとき、佐原の伊能三郎右衛門の家の婿養子になる。伊能家は佐原の旧家の一つで後継者に悩んでいたところ、忠敬に白羽の矢が立った。

「伊能家は50人ほどの従業員がいる大店(おおだな)で、チュウケイ先生のお相手は6歳年上のミチ。相当のプレッシャーがあったと思いますよ。私だったらどうでしょうね。萎縮してしまいますね」(同)

 だが忠敬には商才があった。いや、それだけでなく人心掌握術にも長け、さらに強い正義感を持っていたという。

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