「いつ死ぬかわからないから…」下重暁子、パレスチナキャンプ取材を思い出す (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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「いつ死ぬかわからないから…」下重暁子、パレスチナキャンプ取材を思い出す

連載「ときめきは前ぶれもなく」

下重暁子週刊朝日#下重暁子
下重暁子・作家

下重暁子・作家

※写真はイメージです (GettyImages)

※写真はイメージです (GettyImages)

 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「死がそこにあればこそ」。

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 見る毎に、胸が痛む。暗い夜空にロケット弾が炸裂する。明るい日射しの中でビルが倒壊する。アルジャジーラや米国のマスコミなどが入っているといわれるビルだ。

 こんな風景を今まで何度目にしただろう。そのたびにガザ地区に住むパレスチナ人たちが逃げまどい、幼い子供達が犠牲になる。

 イスラエルによる攻撃はパレスチナのハマスによる爆撃がきっかけだというが、その爆撃はヨルダン川西岸とガザ地区という狭い土地に閉じこめられた上、エルサレムにあるイスラムの聖地に自由に礼拝すら出来ない状況への抗議だった。

 トランプ前大統領の極端なイスラエル優遇策以来、パレスチナ側はますます窮地に追い込まれていた。

 流浪の民だったユダヤ人がパレスチナ人を追い出して、同じような国を持たぬ不幸な民を作り出して以来、両者の間のいさかいは絶えない。イギリスという大国の御都合主義で悲劇は繰り返された。

 私は一九七〇年代、レバノンのベイルートのパレスチナキャンプを何度も取材したことがある。当時はアラファト率いるアル・ファタハがベイルート市内に事務所を持ち、イスラエルと国境を接するレバノン南部にかけて多くの難民キャンプが存在した。五歳の子供までが銃を手に、まるでかくれんぼのように訓練に参加していた。

 第一次中東戦争からアラブの各国を巻きこんでの戦は続き、そのたびに何度もアメリカなどが仲介に入り、停戦がはかられたが、その後、今に至るまで根本的な解決には至っていない。

 日本赤軍の重信房子や岡本公三らがベイルートにいたのも一九七〇年代である。

 私が取材に訪れた時も毎日のようにイスラエルから国境を越えて爆撃が行われ、目の前で男の子の遺体が運ばれるのを見た。いつ犠牲になるかわからぬ状況下でもキャンプの人々は、石積みの奥に住まいを作り、棚を作ってぶどうを植えた。木箱のテーブルと椅子でシャイ(紅茶)をご馳走になった。


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