杖をついてみたら、杖がよく磨いた廊下の板の上ですべって、私の身体は、あっという間もなく、もんどり打って、廊下の床板の上に転がっています。

 転び方にも馴れて、今では、相当上手に転ぶようになりましたが、たいてい、頭をいやと云うほど、廊下の床板にぶっつけるので、老衰とみに進む頭の中味は、もう手術してもおっつかないほど、破壊されていることと思います。

 スタッフは、私がどれほど静かに歩いても、その音を聞きつけて様子を見に来ます。真夜中にゴソゴソと起き出し、寝ている彼女たちを起こす私に、

「あれは、趣味なんだから……」
「老人性甘えが始ったのよ……」
「また、転んで、けがして入院したいんじゃない?」
「私たちの扱いが悪いとフテクサレてるのよ」

 など、勝手なことをほざいています。その結論は、

「……だって、仕方ないわよネ、百だもの!」
「そうそう、百だものね」

 で収ってしまいます。

 彼女たちにバカにされるまでもなく、近頃、「“いや”」という程、百歳の実感を示されつづけています。

 ヨコオさんは、最近ことばの数が少なくなったと嘆いていられます。毎日のように言葉の数が喪失してゆき、観念的な言葉は急激に減ってゆくと、案じていらっしゃいますが、ヨコオさんは、画家ですもの。

 喋らなくなると、今以上に天才じみて、まわりの者は息をひそめ、どんな短い天才の一言も、聞きもらすまいと緊張することでしょう。

 つい、咳をしても、咳の中に、もしかして、天才画家の新しい発想のヒラメキがかくされているのではないかと、緊張することでしょう。

 私はヨコオさんの言葉の少なくなる現象も、れっきとした老衰の現象の一つと感じています。だって、今年、八十五歳でしょう。れっきとしたおじいさんに決まってるじゃありませんか。2人の幼児画の展覧会より、百歳と八十五歳の、阿波踊りでも見せてやりましょう。老衰ハンディなんて、私たちヘンな老人ふたりには、追いつかないのですよ。

 今朝、寂庵では牡丹が四つ開きました。例年より小さくて貧相ですが、まあ、この時代だから仕方ないでしょう。それにしても逢いたいですね。

 やっぱりこのまま手紙だけで死に別れるのは、ちょっとネ。

 ではおやすみ!

週刊朝日  2021年4月30日号