著者によれば、資本主義と個人主義、社会契約(社会的な取り決めと履行)が、近代市民社会の理念である。庶民がブルジョア階級の生活様式を自らの生活に取り入れ、近代市民社会を築いた。

 だが、日本では近代市民社会が根付く前に、地域共同体に依存するプレ近代の段階からポストモダン的な段階へ、一足跳びに社会が変化。そのため、日本独自の「特色」が現れた。欧米のように、自己主張はせず、皆で同調して不快感を抑えるのだ。

 端的なのが交通機関内の親子連れ。子どもが泣いたり騒いだりしないよう親は最大の注意を払う。さもないと一斉に非難の視線だ。

 評者はこの部分は、日本人の歴史的均質性(民族、文化など)も大きな要因だと思うけれど、ここではこれ以上触れない。

 高度秩序社会の閉塞感は、人生の局面ごとに味わうことになる。

 就職の選考基準。「多様性」は看板のみで、第一はコミュニケーション能力、つまり協調性。これがないと会社では働けない。

 恋愛。場違い、強引な声かけはハラスメントと見做される。機会自体が昭和時代より激減した。

 子育て。やっと結婚しても出産は別問題。品行方正・学力優秀に育てるには多額の教育投資が必要。子育ては一大リスクとなった。

 社会のこのハードルの高さに適応できない人が当然出てくる。近年急増した発達障害の人は医療・福祉で支援するとしても、支援対象にならない境界知能(IQ70~84)の人だけでも人口の1割以上。他に、コミュニケーションの苦手な人、個性の強い人、頑固な人、自己評価の低い人……。

 著者は、逃げ場のない「自己責任」社会に暮らす現代日本人に対し、「私たちは生きる自由を享受しているか?」と問いかける。

 コロナ禍の今が、この社会を再考するチャンスかもしれない。

週刊朝日  2020年10月30日号