だからでしょうかね、本を読みたいと思わないのは。ピカソも、本はあまり読まなかったようです。フェデリコ・フェリーニは45歳まで本を読まなかったけれど、万巻の書を集めたような物凄(すご)い視覚的な映画を作りました。僕の場合は絵を描く時は頭からあらゆる観念を排除して、極力、子供の遊びの世界に、没入するようにしています。そして、できれば寒山拾得のようなアホの魂と一体化してみたいと思います。

 絵と文学は比較するものではなく、全く別のものだと思います。川端康成さんも文学は観念、絵画は肉体とはっきり区別しています。ですから画家が観念を志向したり、文学者が肉体を求めるのはおかしいのです。にもかかわらず文学者と画家の交流は昔から濃密です。20世紀の初頭、ヨーロッパでは文学者と画家は悪口ばかりいいながらお互いに作品を向上させてきました。この両者の間に横たわるのは一体何んなんでしょうね。

 今日はこんな話になりました。

■瀬戸内寂聴「数え九十九歳で絵描きになります!」

 ヨコオさん

 ワーイ! ワーイ!

 やっちゃったぁ! やっちゃったぁ!

 何を? って、大変動ですよ。

 ヨコオさんより何十年も遅いけれど、生活の革命ですよ。

 御年数え九十九歳で、小説家瀬戸内寂聴がペンを捨てて、絵筆を買いこんだのですぞ!! ホント、ホント、とうとうアタマに来たかと心配しないで!

 何十年も以前に、ヨコオさんだって、やっちゃったことだもの。何十年も経って、その真似(まね)をするなんて、カッコ悪いけれど、そんなこと言ってらんない。ヨコオさんは、とうに経験してるから、解(わか)ってくれるでしょうけれど、こんな革命は、ある日、突如として起こるものなのね。

 つらつらと考えれば、突如をかもしだす空気は、その前からムクムクしていたけれど、大変革が怖くて、グズグズしていたのは、外ならぬ本人次第なのです。

 何かを変えるということは、恐ろしいことで、決行には只(ただ)ならぬ勇気が必要です。

 結婚すること、子を産むこと、離婚すること、或(あるい)は子の親と死に別れること。

 女の生涯には、捨てておいても、様々な大変革が生じます。

 私は結婚し、子供を産み、自らその平安な生活を破り、只ならぬ人生を選び、ついに髪まで落として、百歳一歩手前まで、生き延びてきました。

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