それが、ある時、恩師に突然、「これからは不便益や!」と宣言された。最初は、言っている意味がわからなかった。

 戸惑う川上教授の心境が変化させたのは、ある高齢者施設の取り組み。階段やスロープ、長い廊下を配置するという取り組みをしているのを知った。それは、筋力維持のため、あえて負荷がかかる動作をさせるためだという。バリアフリーとは逆の発想の取り組みを目の当たりにしし、手間を省くのではなく、手間をかけることで自分自身が変わっていく、それで満足が得られるのだと気づいた。

川上教授は、次第に効率化や便利さを追求することに限界を感じるようになり、00年代初めに不便益の研究を開始。それから、人工知能の研究はやめた。

 素数ものさしのほかにも、川上教授は道を覚えられるように、あえて道が消えてゆくカーナビを考案。不便益という考え方をかたちにすべく、研究している。

「不便益が、社会のしくみのデザインやものづくりの指針の一つになってほしいと思っています」

16年には碁盤の目をした京都の街を生かした「左折オンリーツアー」を企画。できるのは直進と左折だけ。右に行きたい場合は、3回左折する必要がある。京都では小道でも歴史があるため、観光では通らない細い道を通ることで新しい発見ができるという。

 参加費1600円でツアー企画会社が参加者を募集したところ、応募者ゼロ。「自分で左折だけしてけばいいやんと思われた」と振り返る。

 新しい概念が社会に受け入れられるのには時間がかかる。不便益が広まるのはこれからなのだろう。ちなみに、素数ものさしはあんなに売れたのに、川上教授の懐には一銭も入ってこないとか。

「一本10円でももらっていれば、ちょっとした小遣いになっていただろうなあ……」
 
次こそは一儲けにつながればと願う。(本誌・吉崎洋夫)

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吉崎洋夫

吉崎洋夫

1984年生まれ、東京都出身。早稲田大学院社会科学研究科修士課程修了。シンクタンク系のNPO法人を経て『週刊朝日』編集部に。2021年から『AERA dot.』記者として、政治・政策を中心に経済分野、事件・事故、自然災害など幅広いジャンルを取材している。

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