私自身は1973年に始まった四国電力伊方原発の設置許可取り消し訴訟に関わり、原告側証人として出廷もした。国側からは原子力委員会の委員や東京大学教授など、輝かしい肩書の学者が出廷した。しかし、サイエンスとしての立証では原告側が圧勝した。それでも、判決は住民敗訴であった。判決理由は、ほとんどが被告・国側の主張を羅列し、その最後に「いずれも認められる」の文字が付け加えられたものだった。

 伊方訴訟は最高裁まで行き、住民の敗訴が確定した。判決は「国の審査指針は専門家が集まってつくったのだから、司法としては、見逃すことのできない誤りがない限り、行政庁の判断を尊重するという内容です」と住民側敗訴を言い渡した裁判官が本書の中で解説している。しかし、「国策民営」として原子力が推進され、その下に集まる学者の専門技術的判断を認めるというのであれば、原発訴訟は常に住民敗訴となる。

 原発訴訟で住民が勝訴した裁判は数えるほどしかないし、そのすべては、高裁、最高裁で逆転敗訴とされた。つまり、原発裁判に関しては住民側の勝訴は一つもない。原子力ムラに属する国も電力会社も潤沢な資金の裏付けを持つ。それに対して住民たちはなけなしのカネと、生きるための仕事の時間すら犠牲にして裁判を闘ってきた。そして、フクシマ事故が起きた。その事故は「原子力ムラ」に属する専門家の専門技術的判断が誤りであることを事実として示した。

 憲法第76条には「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」とある。最高裁の頸木(くびき)に囚(とら)われず、良識と理性に従って判決を書く裁判官、そんな裁判官が現れてくれることを私は願う。しかし、司法は紛れもなく原子力ムラの一翼を担ってきたし、フクシマ事故以降も変わろうとしていない。裁判官の人事権を握る最高裁が、フクシマ事故以降も専門技術的判断を認めるとして行政に屈服する限り、住民にとっての原発裁判の未来は明るくない。

週刊朝日  2019年10月18日号