帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など多数の著書がある
帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など多数の著書がある
※写真はイメージです (撮影/多田敏男)
※写真はイメージです (撮影/多田敏男)

 西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。老化に身を任せながら、よりよく老いる「ナイス・エイジング」を説く。今回のテーマは「死後の世界について」。

*  *  *

【ポイント】
(1)死後の世界を「ある」と思うようにしている
(2)死後の世界は虚空にあるのではないか
(3)虚空との交流を深めることが大事

「死後の世界はあると思いますか」という質問に、落語家の立川談志さんは「誰も帰(けえ)って来た奴はいねえからなぁ。余程、好いところなんだろう」と応えました。さすがです。

 死後の世界があるかどうかは、生きている人間にはわかりようがありません。でも、私は「ある」と思うようにしています。

 以前にも書きましたが(2018年6月15日号)、死を一人称の死と二人称の死に整理して説明してくれたのは解剖学者の養老孟司さんです。死体とずっと付き合ってきただけあって、死に対する考えが明快です。

 一人称の死とは自分の死ですが、これを自分が目にすることはありません。死んでいるのですから。

 自分の死を想像するのは、二人称の死、つまり他人の死を知っているからです。多くの人は一人称の死と二人称の死を混同しています。よく考えてみると、自分の死というのは、その死を知る自分はすでにいないわけですから、自分にとっては存在していないのです。一人称の死があると考えるのは、本当は存在しない自分の目でみることによって、二人称の死にすりかえてしまっているからです。

 自分にとって存在しない死をあれこれ考えても無駄です。死が自分にとって意味があるとしたら、死後の世界がある場合だけなのです。ですから、私は死後の世界があると決めて、自分の死をとらえるようにしています。

 さて、死後の世界とはどんなところなのでしょうか。それは虚空にあるのではないかと思っています。虚空とは仏教でいうところの一切の事物を包容してその存在を妨げない偉大な空間です。そこに人は死んだ後、帰っていくように思うのです。

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帯津良一

帯津良一

帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など著書多数。本誌連載をまとめた「ボケないヒント」(祥伝社黄金文庫)が発売中

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