映画というものは、やっぱり大なり小なり時代を反映しているんです。当時は若者たちが既成のものを否定するような、ものすごいエネルギーがあった。そういう時代の空気を役へのアプローチにして、狂気ともいえるような“野獣”を演じた。これがひとつの転機だったかな。役者を続けていけそうだ、と切り口がわかったというかね。

――76年、さらに大きな転機が訪れる。大島渚監督の「愛のコリーダ」だ。阿部定事件をモチーフに男女の情愛を官能的に描き、映画史に残る名作であるとともに問題作ともされている。

 やはり大島さんとの出会いは大きかったです。「愛のコリーダ」は結果的に問題作として扱われ、僕も世間にそういう“ラベル”を貼られもしたけど、逆にそれがバネになりましたしね。

 毎日、飯を食うようにセックスをしてる二人。そういうふうにほれ合うのっていいな、こういう切り口のラブストーリーもあるのか、と思った。あの切り口で一種の“純愛”を描く、大島さんはすごいなと。大島さんは撮影中に「こうしろ」とかの演技指導は一切しないんです。「愛の亡霊」(78年)と2作で使っていただいたけど、どちらでも「ダメだ」とかいっぺんもなかった。

 役者にとって代表作というものを持てることは僥倖ですから。それが僕にとっては「愛のコリーダ」だったと思います。

――海外でも高く評価された「愛のコリーダ」だが、日本では物議を醸し、その後、出版物をめぐる裁判にも発展していく。

 あの映画は出資者がフランスで、フランス映画。日本映画じゃないから、映画そのものではわいせつ罪に問えなかった。そこで大島さんが出した台本と写真の入った豪華本が「わいせつだ」と起訴されたんです。

 僕のほうも公開後、次の「愛の亡霊」までの2年間、一本も仕事がなかったんです。でもまったく気にならなかった。すがすがしいものでしたよ。「やるべきことをやって、それで終わるならそれでいいじゃん」と思っていた。

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