――松本が「山越館」に暮らしたのは3年ほど。その間、インキンタムシ以外にも運命の出会いがあった。この出会いがなければ、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」はあれほどヒットしなかったかもしれない。
しばらくして向かいの6畳の部屋が空いたので、そっちに移りました。戦艦大和のピンをカーテンに引っ掛けていたら、元の4畳半に入ったおじさんに「船が好きなのか?」と話しかけられたんです。
その人は、戦時中に最上という巡洋艦の副艦長をしていた方でした。戦後の公職追放で、ずいぶん苦労なさったようです。「オヤジも元軍人で公職追放されていました」と話したら、「そうか」とうなずきながら、押し入れから紙の束を出してきた。「船が好きなんだったら、これをやる」と言ってね。
見てビックリです。戦艦大和の設計図でした。当時はもちろん軍事機密ですが、戦争が終わったときに、捨てられるぐらいならとその人が持って帰って保管していたそうです。見ると、エンジンがどこにあって、どんなレーダーを使って、どんな仕組みで砲弾の照準を決めて発射するようになっていたか、船の構造がすべてわかった。
のちに「宇宙戦艦ヤマト」を描いたときに、どれだけ役に立ったことか。あの設計図がなかったら、作品はあれほど高く評価されなかったかもしれない。そのおじさんに出会ったことも、オヤジが軍人だったことも、アニメ「ヤマト」に参加したことも運命的なものを感じます。
僕の背中をたたいて「何を言ってるんだ」と言ってくれた糸川博士と知り合ったのも、そのころです。東京大学が近かったから、ちょくちょく散歩に行っていました。奥まで入っていって珍しい機械を見ていたときに、「コラ、何やってる」と注意してきたのが糸川先生です。それをきっかけに仲良くなって、3次元レーダーのことやロケット技術のことなど、いろいろ教えてもらいました。
――松本は漫画家になったときから「アニメを作りたい」と思い続けていた。74年、念願かなって、テレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の企画を進めていたプロデューサーの西崎義展から声がかかった。