――大学進学を諦め、漫画家を目指した松本。上京して最初に住んだのが、本郷3丁目にあった「山越館」という木造アパートだった。広さは4畳半。出世作である「男おいどん」は、ここでの貧乏生活がモチーフになっている。

 どうにか漫画家を続けてはいましたが、上京してきて十数年は、あまりパッとしませんでした。

 当時、少年漫画の世界は大家ががっちり固めていて、新人は少女漫画しか描かせてもらえませんでした。ちばてつやも石ノ森章太郎も赤塚不二夫も、みんなそうです。ところが、そのうち女性の漫画家が出てきた。そっちのほうがうまいに決まってます。徐々に出てきた青年誌で、描きたかったSFモノを描いたりしていました。

「週刊少年マガジン」で「男おいどん」の連載が始まったのは、1971年です。九州弁を使う主人公の大山昇太はまさに私だし、押し入れにキノコが生えてきたのも、近所のラーメン屋さんでラーメンライスを食べたのも、インキンタムシに悩まされたのもすべて実話です。

 漫画の中に、特効薬の「マセトローション」が出てきますが、私も実際、あれに助けられたんですよ。アパートじゅうの男性が感染していましたが、症状を説明するのが恥ずかしくて、クスリ屋に行く勇気が出ない。でもある日、新聞の広告に「白癬菌、またはタムシともいう」と書いてあるのを見つけた。学名なら口にできると思って、クスリ屋で「白癬菌の薬ください」と言って、買ってきたんです。

 少女漫画ともSFとも違うジャンルだけど、「男おいどん」にはそれまでにない手ごたえを感じました。「おかげでインキンタムシの苦しさから解放されました」「彼が見違えるように明るくなりました」という手紙が山ほどきたのです。

 私はわかったんです。「この漫画でこれを伝えたい」という目的意識があると読者は読んでくれる、小手先のテクニックで無難にまとめた作品なんて心に響かない、と。

 その後、SF作品をたくさん描きましたが、「男おいどん」で世に出たことをとても誇りに思っています。あの作品では、主人公に託して自分の志や思いを描きました。その後の作品でも、そこは変わっていません。インキンタムシが、漫画家としての大切な心構えや、進むべき道を指し示してくれました。

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