「ここで立ち上がったら医者とバレてしまう」

 私はそんな不安に襲われました。それと同時に、「ここで行かなければ後悔する。自分が医師になったのは人の命を助けるためではなかったのか」という強い思いが生まれました。不安と使命感のはざまで、トイレに行くふりをするという情けない方法を選び現場の当該車両へと向かいます。そこには既に人だかりができていました。

「すみません!」

 私は車掌さんに声をかけます。

「えーと、お知り合いの方ですか?」

 そうきましたか。そうですよね、こんな若造が医者に見えるはずがありません。

「医者です!」

 私は思い切って答えました。

「ありがとうございます」。車掌さんは申し訳なさそうに私の顔を見て、それから現場へと目をやります。そこには聴診器を手に優しく談笑する白髪の男性が既にいました。一足遅かった。結局、私は何もすることができず自分の席に戻りました。こうして私の最初のドクターコールはトイレに行くためだけの車両間の移動で終わったのです。

 医師には応召義務というものがあります。医師法によると「診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」。つまり、医者は呼ばれたら基本、出ていかないといけないのです。

 一方で、医療行為にはいつでも医療訴訟のリスクを含んでいます。「よきサマリア人(びと)の法」は窮地の人を救うため無償で善意の行動をとった場合、誠意を持って最善を尽くしたのならたとえ失敗しても責任は問わないとしたものです。アメリカやカナダでは立法化していますが、日本にはこの法律がありません。代わりに各航空会社が以下のように私たちの医療行為の負担を軽くしてくれます。

「実施していただいた機内医療行為によって、医療行為を受けられたお客様に対する損害賠償責任が発生した場合、故意または重過失の場合を除き、ANAが責任をもって対応させていただきます」(ANAホームページから)

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たとえ「皮膚科医」であっても…