オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(c)朝日新聞社
オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(c)朝日新聞社
松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚とオウム真理教をめぐる主なできごと 【1955年~94年】(週刊朝日 2018年7月20日号より) >>1995年~2018年のできごとはこちら
松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚とオウム真理教をめぐる主なできごと 【1955年~94年】(週刊朝日 2018年7月20日号より) >>1995年~2018年のできごとはこちら
松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚とオウム真理教をめぐる主なできごと 【1995年~2018年】(週刊朝日 2018年7月20日号より)
松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚とオウム真理教をめぐる主なできごと 【1995年~2018年】(週刊朝日 2018年7月20日号より)

 社会を震撼させたオウム真理教事件。一連の事件を指示したとされる元教祖の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚ら教団元幹部7人の死刑が執行され、真相は闇に葬られた。オウム真理教とはいったい何だったのか──。

【表】松本智津夫死刑囚とオウム真理教をめぐる主なできごとはこちら

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「うちの息子もひっかかって一時期入信してた。私は会社も辞めて、麻原と闘ってきたつもりです。私は死刑反対の立場ですが、あの男だけはやむを得ないという気持ち。でも7人いっぺんにやるというのは……」
「オウム真理教家族の会」の永岡弘行会長(80)は、7人の死刑が執行された当日、本誌に思いを語った。永岡さんは1995年1月、自宅近くの郵便ポストに行く途中、信徒にVXをジャンパーの襟にかけられ、一時は意識不明の重体となった。

 その後、永岡さんは、死刑を執行された元幹部のうち、4人と東京・小菅の拘置所で面会し、それぞれの素顔を見つめてきた。中川智正死刑囚と、最後に接見したのは今年の2月6日。

「後悔の念にさいなまれていました。(麻原の呪縛から)目が覚めて、とんでもない男だったということは気づいていたと思います。『後悔してもどうしようもないですものね』とも言ってました」

 永岡さんが会ったほかのメンバーも似たような気持ちでいたように見えたという。ただ、新実智光死刑囚は対照的だった。

「彼は違っていました。自分で自分をまだマインドコントロールしている感じでした。出廷したときもサマナ服を着て、麻原を『尊師』と呼んでいたくらいです」

 無差別テロ「地下鉄サリン事件」など、当時の幹部・信徒ら192人が起訴された一連の事件。終結を急いだかのような今回の死刑執行に対して、「7人執行は異常」「後世の検証に耐えうる精神鑑定をしていない」「動機を解明する機会を失った」など批判的な声は多い。

 ここで、改めて、教祖の麻原の生い立ちを含めて一連のオウム真理教事件を振り返ってみよう。

 確定判決や報道によると、麻原は55年本県生まれ。7人きょうだいの下から2番目で、左目は見えず、右目も不自由だった。盲学校に通っていたころから、児童会長や生徒会長に立候補するなど、「教祖」の片鱗を示していた。だが、人望はなかったようで落選続きだったという。

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上田耕司

上田耕司

福井県出身。大学を卒業後、ファッション業界で記者デビュー。20代後半から大手出版社の雑誌に転身。学年誌から週刊誌、飲食・旅行に至るまで幅広い分野の編集部を経験。その後、いくつかの出版社勤務を経て、現職。

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吉崎洋夫

吉崎洋夫

1984年生まれ、東京都出身。早稲田大学院社会科学研究科修士課程修了。シンクタンク系のNPO法人を経て『週刊朝日』編集部に。2021年から『AERA dot.』記者として、政治・政策を中心に経済分野、事件・事故、自然災害など幅広いジャンルを取材している。

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