昭和天皇の崩御から2日後の平成元年1月9日、即位後朝見の儀において「おことば」を発せられた。300字余りのその「おことば」の中には「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い」という部分があった。この部分は「皆さんとともに日本国憲法に従って責務を果たすことを誓い」でもおかしくはない。にもかかわらず「を守り、これに」としたのは、一歩踏み出した姿勢を正直に語ったと分析できた。

 私が、今上天皇が「政体」の下に「国体」をつけたというのはこのことを指している。平成という時代は「日本国憲法下に存在した」と断言してもおかしくはない。主権在民下での憲法そのものを守り、これに明記されている天皇の務めを果たすと断言したところに、今上天皇の率直な姿勢が見られると断言していいのではないか。

 この考えでいくと、「平成」という時代空間は他の元号とはまったく異なっていたことになる。ところが、平成の「政治」は立法府がほとんど討論もなしに行政の言いなりになる風景を見てもわかる通り、劣化がはなはだしい。別な表現で語るならば、国民の存在が希薄になって、安倍内閣のやりたい放題の状況になっているといっていいのではないか。森友・加計問題などは従来だったら内閣が倒れてもおかしくない。しかしそのような怒りはほとんど示されていない。

 今上天皇夫妻が懸命に時代と接触して、おふたりの約束を果たしていこうとの姿勢を明らかにしているのに、国民がそれについていけないといった表現を用いてもいいかもしれない。

 天皇制にかかわる平成の特徴をもう一点、付言しておく。いつの時代でも天皇が天皇としての務めを果たす目的は「皇統を守る」に収斂できる。戦前、戦時下の言い方をもちだすと古めかしい印象になるが、「国体護持」ということだ。この目的のために「手段」が存在することになる。手段とは、宮中での祈り、伝統的儀式の継承、近代日本の天皇であれば憲法で決められた国事行為も含んでいる。実はこの手段の中に戦争という選択も含まれる。昭和に入っての日本は、この戦争という手段を選んでしまったのだ。

 軍事指導者たちは、昭和16年4月から11月にかけての日米交渉で、自分たちの要求を一方的に突きつけた。外交交渉がうまくいくわけはなかった。この期間に開かれた御前会議、閣議、大本営政府連絡会議など国策を決定する主要会議での軍部の発言は、きわめて平凡な日常会話に置き換えてみるなら、「戦争をする以外に方法はない。あなたが決断すれば我々はいつでも戦う用意がある」といった言い方になる。天皇に強い口調で脅しを続けたとの見方もできるほどだ。

 昭和天皇が逡巡しながら「本当に戦争しかないのか」と聞き返す光景が浮かんでくる。そして結局はそれに応じたということになる。昭和天皇は、戦争が天皇制を崩壊させかねない危険な選択であることを感じとっていたはずだ。

 今上天皇は、昭和天皇のその苦衷を皇太子時代に読み抜いたのであろう。だからこそ、いかなる形でも戦争という手段を選んではならないとの姿勢を示すために、80代に入ってもなおパラオやフィリピンに赴いて追悼と慰霊を繰り返していると思われる。

 今上天皇が戦争という手段から距離を置いていることに思いを馳せれば、今の内閣が進める憲法改正は、新たな視点から論議し直す必要があるだろう。

 平成は重要な問題を提起しているのである。(ノンフィクション作家・保阪正康)

週刊朝日 2018年1月5-12日合併号

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保阪正康

保阪正康

1939年、北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部社会学科卒業。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。延べ4千人に及ぶ関係者の肉声を記録してきた。2004年、第52回菊池寛賞受賞。『昭和陸軍の研究』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞受賞)『昭和史の急所』『陰謀の日本近現代史』『歴史の予兆を読む』(共著)など著書多数。

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