保阪正康 田中角栄が生きていたら言う3つのこと (2/5) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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保阪正康 田中角栄が生きていたら言う3つのこと

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生前退位問題で注目が集まる皇室と、今年空前のブームとなっている田中角栄。両者の同時に脚光を浴びているのは単なる偶然なのか? (※写真はイメージ)

生前退位問題で注目が集まる皇室と、今年空前のブームとなっている田中角栄。両者の同時に脚光を浴びているのは単なる偶然なのか? (※写真はイメージ)

 天皇は、3年8カ月の太平洋戦争の間、精神的に相当疲れていたと思われる。各種資料を吟味していくと、昭和20年2月ごろがピークだったとみられる。戦争が終わったときは、信じるものすべてを失ったような心理状態だったはずだ。

 それをうかがわせる言葉はいくつも残っている。例えば、敗戦後の昭和20年の秋には、ある侍従に対し、「(戦時中は)短波を聞いていた」と語っている。米国の短波放送で戦況報告を聞いていたわけだ。

 天皇は大本営の戦況発表をまったく信用しなくなっていた。そういう昭和史の本当の姿をきちんと押さえておかないと、政治指導者、軍事指導者たちの姿も浮かんでこない。東條が「陛下、この道を選択する以外にないかと思います」ともっともらしく言ったのは、とりもなおさず、「あなた、戦争するしかないよ」という意味だったのだ。

 田中角栄は、そんなオブラートに包んだ表現をしなかった。例えば、園遊会に首相が特権として関係者を呼ぶ場合、ふつうはせいぜい10~20人だが、田中は300人ぐらい呼んだ。越山会の人間がぞろぞろ来た。実家のある新潟・西山町で家を建てるとなれば、御料地の材木を譲ってくれと言ったとの説もある。実に庶民的な発想でモノを言っていた。

 大本営政府連絡会議、御前会議、最高戦争指導会議などの公式記録は、決まり切った文言で語られているけれども、それをかみ砕いて私たちの日常の言葉に直せば、天皇の意思をないがしろにしていることがよくわかる。それに比べ、田中角栄は正直だった。国家の本音の部分、官僚の手による各種資料の行間ににじむ「庶民の言葉」を代弁していた。田中は、天皇制国家には偽善・欺瞞があると受け止めていたのではないだろうか。

 死後20余年たった、今の「角栄ブーム」をどう見るべきか。

 田中角栄という人物は、人間的にも面白い。彼が総選挙に初めて立候補したのが昭和21年。27、28歳だった。この選挙では落ちるが、彼の選挙運動はユニークだった。早稲田大学の雄弁会の学生を何人か雇い、新潟の自分の選挙区に解き放つ。そして、彼らに「俺の名前を連呼して演説してくれ」と言う。そんなことをやった人はいない。発想がじつに庶民的だ。


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