元プロ野球選手 杉下茂さん(撮影/写真部・村上宗一郎)
元プロ野球選手 杉下茂さん(撮影/写真部・村上宗一郎)

「フォークボールの神様」と呼ばれ、日本球界に大きな影響を与えた元プロ野球選手・杉下茂さん。90歳の現在でも解説者として野球に関わる杉下さんには、帝京商業(現帝京大高)に入り、野球人生と切っても切り離せない、ひとつの出会いがあった。それが同校の英語教諭で野球部監督だった天知俊一さんだ。しかし、杉下さんは体調異変で野球ができない状態に。そのまま帝京商を卒業し天知さんと離れ、昭和19(44)年に宇都宮師団に入隊した。

*  *  *

 僕らの部隊は中国の北支に派遣されたんですが、部隊本部のある瀘州までの行軍がひどいものでした。ちょうど日本軍と中国軍が対峙している中間の道を行くんです。その部隊の服装たるや、軍靴の代わりに地下足袋を履いて、帯剣は竹筒の鞘。三八式歩兵銃は大学や中学で教育を受けた者だけが持たされ、他の連中は一発撃ったら暴発してもう終わりという模擬銃なんですからね。

 僕は幹部候補生の試験を受けたんですが帝京商の書類が届かず、書類不備の連中5、6人と上海に移動させられました。任務先は貨物廠。兵隊の仕事が倉庫番になっちゃった。ですから僕は、敵に向かって鉄砲を撃ったことも一切なく、ドンパチの実戦経験のないままに終戦を迎えることができたんです。

――軍隊には手榴弾の投擲訓練があった。鉄製の重い手榴弾を放るには腕力だけではなく、肩を大きく使って腕を伸ばし、遠心力を利用しなければならない。訓練を重ねるうちに帝京商時代に痛めた肘も治り、かなりの距離を放れるようになった。

 上海で終戦を迎えたんですが、中国軍が駐留してくるというので、原隊が置かれていた呉淞(ウースン)に移り、抑留というのか捕虜というのか、隔離生活になりました。あんまり暇なものだから、中隊対抗の野球大会をやろうということになって(笑)。久々にボールを握ってみたら、意外と球が走る。軍隊に入ると鉄砲を担いだりで肩を壊すんですがね。手榴弾投げや匍匐(ほふく)前進が、いいリハビリになったようなんです(笑)。捕虜扱いだといっても、野球だバスケットだバレーボールだと自由にやっているうちに、21(46)年1月に復員ということになりました。

次のページ