原爆投下から70年を迎える長崎。あの日、全てが破壊され、街の様相は一変した。だが、被爆遺構は今も、原爆の惨禍を伝えている。
1945年8月9日、午前11時2分。空は白く光り、時計の針は止まった。
広島に次ぎ、原子爆弾が投下された長崎市の浦上地区。凄まじい熱線や爆風で街は壊滅、7万もの人々が命を落とし、建物の大半は消失した。
倒壊を免れたものは、当初の姿から形を変えた。一本柱の鳥居や頭部を失った聖像──。原爆の惨禍を語る遺構が、あの日から70年を経た街に、今も残る。
爆心地から北東へ500メートル。25年に完成し、その規模から「東洋一の教会」と謳われた浦上天主堂。原爆で激しく損傷したが全壊は免れた。
だが、58年、再建のために教会は取り壊された。今なお残るのは、一部の壁や石像だけ。保存されていれば、「原爆ドームに並ぶ遺構になっていただろう」という市民の声も少なくない。
戦後、保存より復興を優先した長崎には、広島に比べて被爆遺構は少ない。
現存する遺構にも、老朽化や維持費用の問題が押し寄せ、年々姿を消している。
城山小学校被爆校舎平和発信協議会会長の内田伯(つかさ)さん(85)は言う。
「原爆の遺構は残すこと、見て感じること、伝えることに意味がある。目から消えるものは、心からも消えます。遺構を見ることで、そこから平和がなぜ大切かを感じ取ってもらいたい」
戦争の恐ろしさと平和の尊さを、被爆遺構は語らず、その姿で訴え続けている。
※週刊朝日 2015年8月14日号