第22回大会(1936年)に出場した岐阜商の選手たち。右端が加藤三郎、隣が松井栄造 (c)朝日新聞社 @@写禁
第22回大会(1936年)に出場した岐阜商の選手たち。右端が加藤三郎、隣が松井栄造 (c)朝日新聞社 @@写禁
岐阜商選手たちの優勝記念寄せ書き。右下の主将・松井栄造投手のほか、加藤三郎、近藤清らの名前も読み取れる (c)朝日新聞社 @@写禁
岐阜商選手たちの優勝記念寄せ書き。右下の主将・松井栄造投手のほか、加藤三郎、近藤清らの名前も読み取れる (c)朝日新聞社 @@写禁

 今年、100年を迎える高校野球。この間、第2次世界大戦に召集され命を落とした名選手も多い。第22回大会を沸かせた岐阜商ナインも、松井栄造投手(1918~43)、加藤三郎捕手(19~45)、近藤清遊撃手(20~45)ら5人が戦地に散った。作家木内昇氏が彼らを追う。

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■昭和11年 岐阜商 チーム力で無類の強さ

 強靱なチームだった。市立岐阜商業学校。学生野球は今も昔もひとりの名選手に牽引されるケースが少なくないが、昭和初期の岐阜商には毎年、中学生離れした逸材が多数現れた。それだけにチーム力が高く、総力戦の「岐阜商野球」は無類の強さを誇ったのだ。

 現・甲子園大会は、大正4(1915)年8月に大阪の豊中グラウンドにて行われた全国中等学校優勝野球大会が嚆矢である。旧制中学校は13・7歳の生徒からなる5年制。また、都道府県ごとに代表校を決める現在と異なり、東北、東京、東海、京津(京都、滋賀)、関西、兵庫、山陽、山陰、四国、九州という各地区から1校ずつの選出だった。よって全国大会といえど、参加校10校と規模は小さい。

 とはいえ野球人気は絶大で、第3回大会以降の開催地・鳴尾球場を経て、大正13(1924)年には阪神電鉄が巨費を投じて建設した甲子園球場へと試合場を移す。それまでとは比べものにならない大規模スタジアム。ここを満員にするには10年かかると竣工時に囁かれていた5万人収容の客席は、最初の大会で大観衆に埋め尽くされた。同年、春の選抜大会もはじまり、中等学校野球への注目度は、いっそう高まっていった。

 この甲子園に岐阜商が颯爽と登場したのは、大会が巷に定着した昭和7(1932)年の第9回選抜大会である。翌8年の第10回選抜で初優勝を飾るや、第23回大会まで連続出場を果たし、その間3回も優勝に輝いている。

 夏の大会は、昭和11(1936)年の第22回大会が初出場。地区予選は参加665校、本大会は参加22校と、多くの学校が目標とする舞台へと既に成長を遂げている。

 岐阜商は1回戦で当たった盛岡商に18対0と大差で勝って勢いに乗り、2回戦の鳥取一中、続く和歌山商と危なげなく勝ち進むと、前年準優勝の育英商をも6点差で破って決勝戦の舞台に立った。対するは京津代表の平安中。過去に準優勝経験もある甲子園常連校だ。

 塁に出て足で引っかき回すチームだけに、ともかく走者を出さないよう、岐阜商エースの松井栄造は丁寧にコースをついた投球に徹した。最上級生で主将、打順も3番。チームの要であり、端麗な容姿でも人気の、まさに花形選手だった。

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