戦地に散った球児たち(1)<作家・木内昇> (2/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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戦地に散った球児たち(1)<作家・木内昇>

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木内昇週刊朝日#2015夏の甲子園
第22回大会(1936年)に出場した岐阜商の選手たち。右端が加藤三郎、隣が松井栄造 (c)朝日新聞社 

第22回大会(1936年)に出場した岐阜商の選手たち。右端が加藤三郎、隣が松井栄造 (c)朝日新聞社 

岐阜商選手たちの優勝記念寄せ書き。右下の主将・松井栄造投手のほか、加藤三郎、近藤清らの名前も読み取れる (c)朝日新聞社 

岐阜商選手たちの優勝記念寄せ書き。右下の主将・松井栄造投手のほか、加藤三郎、近藤清らの名前も読み取れる (c)朝日新聞社 

 速球派左腕だが、そのストレート以上に相手打者を翻弄したのが、大きく落ちるカーブである。バッターボックスに立つと、三尺(約90㌢)も落ちるように見えたことから、松井自身が「三尺」なる異名を取るほど。もはやその球筋を確かめる術はないが、現代の選手でいえば、ソフトバンクの武田翔太が得意とする落ちるカーブに似た変化をしたのかもしれない。

 松井に関しては、「打っても投げてもフォームが美しく、どこを守っても器用にこなした」と、同時代の選手たちの証言が数多く残っている。岐阜商卒業後に進んだ早稲田野球部でチームメートだった南里光義も、こう書き残している。

「素晴らしい野球センスの持ち主だった。野球をやるためにこの世に生まれてきたような人だった」(『最後の早慶戦』より)

■立てて構える 打撃の加藤三郎

 この松井の球を受けていたのが、彼の後輩で、やはり抜きん出た野球センスを持っていた捕手・加藤三郎だ。岐阜商ナインが揃った写真を見ると、ひとり飛び抜けて体が大きい。

 リードも巧み、かつ図抜けた強肩だったが、彼の最大の武器はその打撃力にあった。甲子園でも4番に座り、卒業後進学した明治大学では、強打者揃いの野球部で1年から4番を任されるほど傑出していた。

 岐阜商で加藤の1年後輩だった遊撃手・近藤清の甥御さんにあたる近藤幸義氏(79)曰く、「ともかく打球の飛距離が桁違いだったと聞いています」。バッティングフォームも、独特だった。

「バットを立てて構えるんですよ。あの頃は、加藤三郎か甲陽中の別当薫くらいしか、そういう構えの選手はいなかったようですね」

 巨人の坂本や日ハムの中田の構えを想像していただければわかりやすいと思う。ただ現在は強打者に限らずとも、バットを立てた構えが大半を占めているが……。

「昔はボールが粗悪だったですから、ミートしても今ほど飛距離が出ないんです。しかも学生野球も木製バットの時代でしょう。だから、まさかりを担ぐようにバットを寝かせて構えたほうが、確実性があったんだと思います」(幸義氏)


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