確かにバットを寝かしてそのまま水平に出せば、内角にも外角にも素早く対応できる。メジャーで活躍する青木宣親のフォームがそれだ。加えて「飛ばないボール」への対策として、ミートポイントを前に持ってきて短打を重ね、得点に結びつけるという打法が当時の主流だったこともある。

 対して加藤三郎は、手元にボールを呼び込んで思い切り振り抜くスタイル。バットを振った遠心力で粗悪なボールをはじき返すわけで、かなりの馬力が必要だ。が、力だけあっても長打とはならない。ミートポイントの正確さ、手首を返すときの力強さとキレ(よく「雑巾を絞るように」と言われる、あれだ)、軸足のブレの無さ、体重を後ろ足に残して持ちこたえる安定感。センターオーバーの打球も珍しくなかったというから、おそらく加藤は、現代の野球にも適応しうる打撃技術を、独自の工夫で編み出し、会得していたのだろう。

 この決勝戦でショートを守っていたのが、近藤清である。9人きょうだいの末っ子。甥の幸義氏は次男・忠七氏のご子息で、忠七氏と清は歳が11歳離れていたため、叔父というより兄のような存在だったという。

 ちなみに幸義氏も戦後、岐阜商野球部で汗を流したひとり。72歳まで野球を続けたという強者だ。

「清さんは打力もあって、この決勝では7番を打っていますが、卒業後に入った早稲田では3番でした」

 屋内で近藤が素振りをすると、ガラスがビリビリ鳴ったという逸話も残る。

 接戦が予想された決勝戦だったが、平安打線が好投の松井からもぎとれたのは、2回の1点のみ。安打数では、岐阜商7に対して平安中は8と多いのだが、岐阜商の堅固な守備に得点を阻まれた。6回以降、平安側に守備の乱れが出たこともあり、結果的に9対1で岐阜商の圧勝となったのだ。

 1回戦から一度も足をすくわれず、安定した試合運びで堂々優勝した岐阜商の強さは、多くの野球ファンを魅了したのである。

 一躍ヒーローとなった選手たちは、卒業後、それぞれ大学へ進み野球を続ける。当時は、発足したての職業野球より大学野球のほうが遥かに人気が高かった。

 松井と近藤は早稲田に、加藤は明治で活躍した。

「清さんは早稲田で捕手に抜擢されます。体格が立派でしたから、遊撃手より合っていたのでは」(幸義氏)

木内昇(きうち・のぼり)
直木賞作家。1967年生まれ。野球通で、昨夏は甲子園観戦記を本誌に連載。代表作に『漂砂のうたう』『櫛挽道守』

週刊朝日  2015年7月31日号