中国を題材にした多くの作品で知られる作家の陳舜臣さんが1月21日、90歳で亡くなった。2008年に脳内出血で倒れてから療養生活を続けていた。陳さんは司馬遼太郎さんの大学時代からの友人。2人の友情は終生続いた。「街道をゆく」の旅の友でもあった。

 1993年1月、「街道をゆく台湾紀行」の旅も、陳さんのひと言から始まった。

「街道、台湾まだやな」

 神戸生まれの陳さんだが、ルーツは台湾にある。「第二の故郷」と考える台湾に、司馬さんを連れていきたかった。当時担当者だった筆者に司馬さんはいった。

「自分が案内するという意味だと思う。陳君のスケジュール、聞いておいて」

 こうして「台湾紀行」は順調に仕事が進んだ。当時の李登輝総統に会うことができたのも、陳さんのおかげだった。李総統と司馬さんの話が弾み、後に対談に発展したのを、陳さんは喜んでいたと思う。

 ただ、「台湾紀行」では、ひとつだけ問題があった。台北市でのホテルを編集部が決めたあと、司馬さんが笑いながらいった。

「陳君から連絡があってね、そのホテルには泊まりたくないようだな。刑務所があった所に建てられたらしく、気味が悪いらしい。陳君に怖くないから一緒のホテルにしようといってみて」

 さっそく陳さんに会うと、微笑を絶やさない。しかし、司馬さんの意向を伝えると、断固としていった。

「僕はいいけど女房がね」

 結局、ホテルは別々になり、司馬さんはいっていた。

「中国語でお化けのことは、『鬼(クイ)』といって、現代的な人でも結構恐れると聞いている。そのうち、どこかで使える話だね」

 司馬さんが言ったとおりで、「台湾紀行」の中盤でもらった原稿のタイトルが「鬼」だった。「牡丹燈籠」や行き倒れの人を祀る台湾の風習の話が展開された。陳さんの話が結局役に立ったことになる。

 陳さんに「司馬さんと神戸」という文章(司馬遼太郎追想集『ここに神戸がある』)がある。お互い作家になった昭和30年代後半、司馬さんが神戸の北野町の陳さんの家を訪ねたことが時々あった。

<二児の母となっている私の娘が、そのときまだ幼稚園にも行っていなくて、庭で司馬夫妻に遊んでもらっていた>

<「街道をゆく」の神戸篇では二日ほど会ったが、私から取材するようなことはなかった。同年、同窓なので、仕事をはなれてほっとするのであろう>

 実際には、ホームグラウンドの「神戸散歩」(82年)でも気を配ってくれた。84年には「中国・びん(※)のみち」を一緒に歩いている。

 福建省の山中の少数民族、ショー族の村を訪ね、大歓迎を受けた。やはり同行の考古学者の森浩一さんがここで提案した。大歓迎にお返しするものがない、司馬さん、陳さん、なにか字を書いたらどうだろうか。司馬さんが閉口して固辞したところ、陳さんがたちどころに筆をとった。

<このとき目をみはったのは、陳舜臣氏の書と、みごとな七言絶句だった>

 と、司馬さんは「美酒としての文学」という文章に書いている。山間の美しい風景と、披露されたショー族の山歌(求婚歌)の楽しい風情が詠み込まれ、しかもリズムが美しい。一行は大いに面目を施したのである。

(※)「びん」の字は本来、門がまえに虫と書く

週刊朝日 2015年2月6日号より抜粋