映画「利休」では、勅使河原宏氏とともに日本アカデミー賞優秀脚本賞を受賞。「老人力」では新語・流行語大賞のトップテンに入賞した (c)朝日新聞社 @@写禁
映画「利休」では、勅使河原宏氏とともに日本アカデミー賞優秀脚本賞を受賞。「老人力」では新語・流行語大賞のトップテンに入賞した (c)朝日新聞社 @@写禁

 赤瀬川原平さん(77)が10月26日、敗血症で亡くなった。前衛芸術家であり、芥川賞作家であり、画家。さまざまな肩書を持ち、『老人力』などのベストセラーでも知られるが、それでは言い尽くせない。赤瀬川さんの魅力に惹かれた人々に、その“磁力”を語ってもらった。

 赤瀬川さんはさまざまな分野の人たちと、いくつものグループをつくっていた。「日本美術応援団」を1996年に一緒につくった明治学院大学教授で美術史家の山下裕二さんが言う。

「自然に赤瀬川さんの磁場に引きつけられて仲間が集まるんです。それでいて、彼は決してグループの長にはならない。日本美術応援団だって、僕が長で赤瀬川さんは団員1号だった。自分が権威になることを嫌うんですよね。気の合った仲間と過ごすのが好きで、僕もほんとに一緒に過ごした時間が楽しかった」

 建築史家の藤森照信さんやイラストレーターの南伸坊さんらとつくった「路上観察学会」は有名だが、ほかにも「ハイレッド・センター」「使い捨て考現学会」「脳内リゾート開発事業団」などのグループがあった。藤森さんは路上観察学会の思い出をこう語る。

「国内だけじゃなくて、上海とかベトナムとか、いろいろな所へ行きました。彼は撮った写真を、ちょっと照れながら見せる。みんなが気づかないようなもの、よくわからないものもあった。彼には独特の考え方があり、何を聞いても少し違う答えが返ってきた。それが芸術に出たり、著作に出たり、写真に出たりしたんだと思う」

 大ベストセラーになった『老人力』(98年)は、もともと藤森さんが、路上観察学会でベトナムに行ったときに使った言葉だという。

「ベトナムのちっちゃなホテルの2階に僕と南と同室で寝ていたんですよ。朝起きて、何か話そうと思ったんだけど、何を話そうとしたのか忘れちゃったのよ。でも、その忘れたことを積極的にとらえようと思って、『老人力』という言葉を使ったんです。下の食堂で『赤瀬川さんみたいに物忘れする力をこれからは“老人力”と呼んだらどうだろう』と話したら、赤瀬川さんがすごく喜んで、『老人力』という本を書いた。文章を書くことで、『老人力』という言葉に実体を与えていったんですよね」

 赤瀬川さんはおもしろいものを拾い上げる感覚がさえていた。無意味な建造物や意味不明のものを見つけては、巨人で三振ばかりしていた外国人選手になぞらえて、「超芸術トマソン」と名付けた。辞書「新明解国語辞典」の人間くさい記述に注目した『新解さんの謎』(96年)もヒットした。

 前衛芸術家としては、物議を醸す行動もあった。63年に千円札を模写した作品をつくり、通貨模造にあたるとして起訴された。だが、裁判では仲間の芸術家たちが前衛的な作品を持ち込み、法廷が展覧会場のようになったという。

 この後、雑誌に漫画を連載したり、明治から昭和にかけて風刺とユーモアで権力批判をしたジャーナリスト、宮武外骨(みやたけがいこつ)に注目して著書や授業でとりあげたりと、活動の幅を広げていった。81年には尾辻克彦の名で書いた小説『父が消えた』で芥川賞を受賞した。

週刊朝日  2014年11月14日号より抜粋