「槍の又左」と呼ばれる荒武者として有名な戦国大名・前田利家。徳川将軍家とも縁が深いが、現在の東大の赤門が造られた所以は、前田家にあったと前田家第18代当主・前田利祐(としやす)氏は話す。

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 江戸の上屋敷は本郷にありました。たしか、敷地は11万坪くらいあったはずです。明治維新で新政府に返上したあと、一部を買い戻して住み続けましたが、それでも敷地は1万坪くらいありました。

 本郷の屋敷は、現在は東大のキャンパスになっています。有名な赤門は、11代将軍・徳川家斉(いえなり)の娘の溶姫(ようひめ)が前田家に嫁入りするときのために建てられたもの。将軍家から嫁を迎えるときには、朱塗りの門を造るのが習わしだったんですね。

 昭和の初めごろ、前田家と目黒区駒場にあった東大農学部とが土地交換をしました。祖父の利為(としなり)は、そこに外国の要人も招待できる屋敷を建てたいと考えました。「東洋一の邸宅」とも言われたこの建物は、昨年「旧前田家本邸」として国の重要文化財となりました。

 前田家に伝わる古文書や刀剣、美術品を保存管理するために、前田育徳会という財団法人を立ち上げたのも祖父です。関東大震災を経験して、伝来の品々を焼失などから守るために財団所有にしたのです。そのおかげで、戦後の混乱期にも、伝来の品々はほとんど散逸せずにすみました。現在、財団には国宝が22点、重要文化財が76点所蔵されています。

 祖父とは、駒場の屋敷で一緒に住んでいました。記憶にあるのは、朝に祖父母の部屋へ「ごきげんよう」とあいさつに行ったり、夜は一緒に晩ごはんを食べたり、といったものです。初孫ですから、かわいがられましたが、朝のあいさつのときに、やあこっち来い、と言われて少し話をするといった程度。接触はそれほどない。祖父や親父が「こら!」と叱ることもありません。子どもは親に対して敬語を使うし、きわめて他人行儀と言えるのかもしれませんね。

 子どもには一人ずつお付きの人がいて、その人たちが教育もしていました。うちは侯爵家でしたが、華族だけでなく、戦前はある程度のお金持ちなら同じようなものでしたよ。

 幼稚園の送り迎えもお付きの人たち。おふくろが行くなんてことはありません。学習院幼稚園の玄関の横には、広い畳敷きの“供(とも)待ち”という部屋がありましてね。子どもを送ってきたお付きの人たちが、そこでしゃべったり裁縫したりしながら、幼稚園が終わるのを待っていました。もちろん、小学校に上がったら、お付きの人はついてきません。

 祖父は、陸軍大学で東条英機さんと同期の軍人です。第2次大戦ではボルネオ守備軍初代司令官となり、現地で戦死しています。

 駒場の屋敷での葬儀では、玄関に家族で並び、参列者をお迎えしてお辞儀をしたことを覚えています。たくさんの方々がみえられたなかで、東条さんも軍服で入ってこられた。毎日のように新聞に顔写真が出ていたから、小学1年生の僕でも東条さんはわかりました。祖父が亡くなって、駒場の屋敷は手放しています。

 戦後には、農地解放と財産税、それに預金封鎖がありました。わが家にとって、それはもう大変なダメージでした。うちの場合は、財産の9割を払わなければいけなかったので、軽井沢の別荘や新宿区大久保の屋敷などを財産税を払うために売却しました。

(構成 本誌・横山 健)

週刊朝日  2014年9月12日号