免許なしで車を運転して試験場へ? 明治・大正の仰天運転免許試験 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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免許なしで車を運転して試験場へ? 明治・大正の仰天運転免許試験

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 運転免許といえば、いまや国民の8千万人以上が保有するありふれた資格だが、100年前はごく一部の人だけが持つ特殊技能だった。

 自動車が街中に登場し始めた当初は、輸入車販売店の関係者らが運転を指導していた。1916年には、最古の教習所「東京自動車学校」が創立された。それでも、増大する需要に対し、「供給」は到底、追いつかなかった。

『日本自動車史』などの著書がある自動車史研究家の佐々木烈(いさお)氏は、「特殊技能者の運転手は高給取りのエリートだった」と話す。

「警察官や小学校教員の月給が15円だった時代に、2倍の30円ほどをもらっていたといいます。欧米式にチップももらえたので、非常に人気が高い仕事でした。でも、運転手、運転の指導者ともに常に不足していました。富裕層の車の所有者が、『もっと免許試験を易しくしろ』と警察に圧力をかけたほどです」

 そんな自動車黎明(れいめい)期の1913(大正2)年3月、読売新聞に「自動車物語」と銘打ったルポ記事が14回にわたって連載されている。自動車の種類や所有者の紹介のほか、自動車の故障が多いことや道路事情が悪いことが綴られているが、試験については次のような記述がある。

「それが仮令(たとえ)高等文官や外交官試験であろうとも、受験者が堂々と自動車で乗込む事は珍しい、然るに流石(さすが)は運転手志望だけあって、何(いず)れも立派な自動車に乗って駆付けるから面白い。そうして其の自動車が試験用に供され、受験者がそのハンドルを握り、試験官が助手席に着いて警視庁の石段を離れる」

 つまり、当時は免許がないのに車で警視庁に乗りつけ、そのまま試験官である警察官を隣に乗せて操車試験に臨んでいたというのだ。

 そのコースについては、「濠(ほり)端の人通り稀(まれ)な大道路を取締規定一時間十哩(マイル)以上で走るのを最初とし、九段坂、三宅坂の上下電車荷車人間の織るがごとき須田町付近を一巡して再び警視庁の石段へ横付けとなる」と説明している。どことなく牧歌的な雰囲気が漂ってくる。

 当初、免許交付や自動車登録、営業の届け出は、道府県ごとに規則を決めて行っていた。警視庁が1912(明治45)年施行した「自動車取締規則」を見ると、運転免許証は運転手自身ではなく、運転手の雇い主が警視庁に願い出て発行される手はずになっている。免許証は木製から銅板製、紙製へと変遷していった。

 試験については、警視庁の規則では「運転手に対しては行う」との条項があるが、その内容や実施方法は、史料に乏しくはっきりしない。1919(大正8)年、内務省が「自動車取締令」を制定したことで、ようやく統一的な運転免許試験制度が確立したのだった。

週刊朝日  2014年6月6日号より抜粋


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