大瀧詠一さん=95年5月撮影 (c)朝日新聞社 @@写禁
大瀧詠一さん=95年5月撮影 (c)朝日新聞社 @@写禁

 松田聖子の『風立ちぬ』、小林旭の『熱き心に』など数多くの名曲を残した大瀧詠一さんが、昨年末急逝した。ライターである中西亜都子氏が思い出を語る。

*  *  *

 昨年12月30日、大瀧詠一氏がこの世を去った。享年65。あまりにも突然の訃報(ふほう)。正月三が日は、大瀧氏の音楽を聴き続け哀悼の意を表した音楽ファンも少なくないはずだ。

 大瀧氏の功績はなんと言っても日本語でロックやポップスのメロディーを歌うことを当たり前にしたことだろう。

 外国産(主にアメリカ、イギリス)のポップスのメロディーは、当然のことながら英語が持つ言語のリズムが基本になっている。それを日本語に置き換えてどう音楽にするか。その試行錯誤に挑戦してきたのが、大瀧氏と彼が在籍していたロック・グループ「はっぴいえんど」だった。

 はっぴいえんどの活動は1969~72年。3年のあいだに彼らが目指したのは、欧米産の洗練された音楽を日本語に翻訳するだけではなく、日本のオリジナルなポップス、ロックを生み出すことだった。

 メンバーのひとり、松本隆(後に作詞家として松田聖子らに歌詞を提供)による日本的な叙情を感じる歌詞を、欧米のポップス由来の新しいメロディーにいかに乗せるか。はっぴいえんどはこの使命を、細野晴臣(後にYMOを結成)、鈴木茂(ギタリストとして活躍)という4人で追求したバンドだった。

 その成果は、大瀧氏のまな弟子ともいえる山下達郎、大貫妙子(共に大瀧氏がプロデュースしたグループ、シュガー・ベイブでデビュー)、「笑っていいとも!」のテーマ作曲で知られる伊藤銀次(大瀧氏のソロ作多数に参加)らの活躍を見ればわかるだろう。

 一度聴いた曲はすべて記憶しているのかと思うほどの記憶力は有名だった。「無人島レコード」という雑誌が企画した「無人島に1枚だけ持って行くなら何にするか」というアンケートで、大瀧氏は「『レコードリサーチ』というカタログの1962~66年」をあげた。「全曲思い出せる」から、「ヒットチャートを頭の中で鳴らしながら一生暮らす」ことができる、という理由だった。

 はっぴいえんど解散後は、東京都瑞穂町の自宅にレコーディング・スタジオをつくり、大瀧氏はそこで理想とする音楽を目指した。私も訪問したことのあるその「福生45スタジオ」には、命名の由来である45回転のシングル盤が壁一面に飾られ、大きなミキシング・コンソールが存在感を放っていた。コンソールはレコード会社の放出品を譲り受け、新たに組み立て直しているとのことだった。

 この「45スタジオ」から彼がDJを務めたラジオ番組「ゴー!ゴー!ナイアガラ」や、『ナイアガラ・ムーン』『ナイアガラ・トライアングル』などの名作が生まれたのである。

 私が訪れたとき大瀧氏は、愛娘をひざにのせるなど、くつろいだ表情であり、どこか飄々(ひょうひょう)とした雰囲気の人だったことが印象に残っている。

 そのときの大瀧氏の言葉を借りると、自宅にスタジオをつくることは、時間を気にせず録音できるほか、「どの音にはどのマイクが合うか」が研究できる。また、「今はのらないからマージャンしようか、とかそういうことがよくあるんです」と話していた。

 例えばこんな歌がある。

「気の合う仲間集まりゃ 楽しいよ」で始まる「楽しい夜更し」は、ついつい徹夜マージャンに興じてしまったことをユーモラスに歌ったものだが、おそらく自宅スタジオでの出来事(?)を、そのまま歌にしたものなのだろう。

 大瀧氏はシリアスに音楽を追求するだけでなく、このようにユーモアのセンスも抜群だった。レコーディング・クレジットにしばしば登場する多羅尾伴内、笛吹銅次、厚家羅漢(あっけらかん)は、いずれも大瀧氏の変名なのである。

 2003年の「恋するふたり」以降、新作はなく、めったにメディアに登場することもなかった。

週刊朝日 2014年1月24日号