2013 春仕込みが始まった。トラブルはあるものの、作業は進む。新しい金属的な醸造工場内に、蒸した大豆の匂いが広がった(撮影/写真部・馬場岳人)
2013 春
仕込みが始まった。トラブルはあるものの、作業は進む。新しい金属的な醸造工場内に、蒸した大豆の匂いが広がった(撮影/写真部・馬場岳人)
2011 震災直後醸造工場の外壁だけが残っていた。陸前高田市は市街地が壊滅し、約1800人の死者・行方不明者が出た(撮影/写真部・松永卓也)
2011 震災直後
醸造工場の外壁だけが残っていた。陸前高田市は市街地が壊滅し、約1800人の死者・行方不明者が出た(撮影/写真部・松永卓也)

 真新しい醸造工場の圧搾機から、琥珀(こはく)色の液体が流れ出した。おちょこに受けた男性が、鼻を近づけて匂いをかぐ。「まだまだだけど、2年半でここまできました。今は全部ひっくるめて良かったと思えます」。

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 先月29日。岩手県陸前高田市の屈指の老舗「八木澤商店」で東日本大震災後、初めて醤油(しょうゆ)が搾られた。9代目社長の河野通洋(みちひろ)さんはいつもの穏やかな笑みを浮かべていたが、ここまでの道のりは決して楽ではなかった。

 創業200年を超える醤油・味噌醸造会社。150年使い込まれた気仙杉の木桶で仕込む醤油は「香ばしい」と評判が高く、2009年の農林水産大臣賞にも選ばれた。蒸した大豆の匂いが漂う町で、土蔵のなまこ壁は有名だった。しかし大津波は、コンクリートで造られた工場の外壁だけを残し、すべてを流し去った。

 震災直後の瓦礫(がれき)の中で、父で8代目の和義さんは、希望の言葉だけを口にした。「ここまでさっぱり持っていかれたら、あとは笑顔しかない」。

 通りがかった市役所職員と抱き合って無事を喜んだ。避難所になった高台の寺のほうから声をかけられれば、「なんか足りねえものねえかー。花見んときは酒届けっからなー」と大声で返した。

 心配した得意先が携帯に電話をかけてきた時も前向きだった。「大丈夫。これから何でもやるから。誰一人、クビ切ってないから。絶対に復興してみせます」。

 言葉のとおり、40人いる社員を一人も解雇しなかったばかりか、内定を出した新入社員2人をも迎え入れた。社員を集めた11年4月1日、66歳の和義さんが会長に退き、37歳の通洋さんが新しく社長に就いた。この交代劇は、通洋さんが震災直後、自ら願い出て実現した。「すべてを失ったところからの復興は体力勝負。年齢は若いほうがいい。だから『俺、社長やるわ』と言った。すると親父は『そうだな』と」。

 9代目としての初仕事は、営業再開を宣言し、岩手銀行の封筒に入った給料を社員に手渡しすることだった。社屋も、製造設備も、何もない。物資供給のボランティア活動さえ、業務内容に組み込んだ。醤油と味噌は、すぐには造れないから、品質が近い秋田県の同業者に製造委託し、自社ラベルを粘って売った。

 震災後1年目の売り上げは、以前の半分以下になった。社員の給料は全額出せたが、役員の給料はゼロ。それでも2年目には旅館を改築した事務所兼店舗と、廃校になった一関市の小学校跡に醸造工場を完成させた。

 13年の春、新しい工場で醤油の仕込みが始まっていた。気仙杉の木桶はなくなり、以前よりも機械化されたが、大事な部分はしっかりと引き継がれた。例えば“醤油の命”と呼ばれるもろみだ。同じく被災した釜石市の県水産技術センターへ預けていたものが、幸運にも発見された。材料の大豆と小麦も地元の岩手県産を使った。

 8代目が震災直後に見せた前向きなエネルギーは今、9代目に引き継がれている。

 通洋さんは、新築1年の自宅を津波に流された上、給料は震災後3年目の今年も月々20万円しかない。醸造工場を建てるのにも3億円以上の借金をした。しかし、「地場産業が復活しないと、地域の復興はないんです」と、口を開けば陸前高田市の将来を熱く語りだす。

 13年10月29日。流れ出した初搾りの醤油を味見すると、ほのかに甘かった。「もっと糖がアルコール発酵しなければいけない。でも、未熟者の私にはぴったりですね。甘ちゃんだから醤油も甘い」。

 通洋さんがうれしそうに言った。醤油は、工場の窓から差し込む午後の光に照らされ、キラキラと輝いていた。

週刊朝日  2013年11月29日号