2012年京都大学の山中伸弥教授がノーベル賞を受賞し、日本だけでなく世界が注目するiPS細胞。その実用化について、京都大学iPS細胞研究所特定准教授の八代嘉美氏(36)に話を聞いた。

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 日本で作製された人工多能性幹細胞(iPS細胞)は、これまでの世界の常識を覆しました。これによって、未来の医療は劇的に進むはずです。

 人間は、60兆から100兆個の細胞から成り立っています。それらは元を正せば、1個の細胞の受精卵が分裂を繰り返してつくられたもの。分裂を繰り返す過程でさまざまな組織や臓器の細胞に変わっていくのです。いったん役割が決まった細胞は、その役割を変えることはありません。神経の細胞がある日突然、肝臓に変わることはありえない。それが従来の常識でした。

 しかし、京都大学の山中伸弥教授は、皮膚から取り出した細胞に、四つの遺伝子を導入するだけで、役割が決まっていた細胞を受精卵に近い状態に戻すことに成功したのです。

 このiPS細胞の発見によって、心臓が悪い場合には心臓の細胞をつくるなど、治療に必要な細胞を再生できる可能性が出てきたのです。2030年には「脊髄(せきずい)損傷」や、日本人の3大死因の一つ「心筋梗塞(こうそく)」など、従来は治療が難しかった病気を治せるようになっていると考えられます。

 脊髄損傷とは、事故や病気によって脊髄が損傷を受け、体が麻痺状態になることです。脊髄は神経細胞でできた束で、運動や感覚などをコントロールするために脳と体中を結ぶ「通信ケーブル」です。損傷を受けると脳が連絡を取れなくなり、麻痺状態に陥ります。

 決定的な治療法はなかったのですが、iPS細胞から神経のもとになる細胞をつくり、それを患者に移植することで治療が可能になりそうです。慶応義塾大学ではすでに、脊髄損傷で手足が麻痺したサルに細胞を移植し、運動機能を改善させることに成功しています。

 次に心筋梗塞では、現在、大阪大学と東京女子医科大学が共同で、iPS細胞で心筋細胞の「シート」をつくり、治療に用いようとしています。マウスの実験では、このシートを心筋に貼り付けると、死んでしまった心筋細胞の代わりに拍動し、心臓の機能を回復させることができたといいます。

 こうした例にとどまらず、iPS細胞による再生医療はかなりの速度で進化していくでしょう。

 患者自身の細胞からiPS細胞をつくり、それを治療に使う分には拒絶反応も起きません。ただ、患者ごとにiPS細胞をつくっていたのでは、治療までに時間がかかりすぎるうえ、経済的にも成り立ちません。

 iPS細胞にはいくつものタイプがありますが、日本人に多いタイプの上位50種類を集めれば、日本人の9割が拒絶反応を起こさない移植をすることができると言われています。このため2030年には、血液バンクのように、あらかじめたくさんの人から細胞を集めた「iPS細胞バンク」が実現しつつあるでしょう。

 安全性が確認できたiPS細胞をバンクに集めておけば、患者ごとにiPS細胞をつくる必要はないですし、いざというときに対処できるのです。

 また、難病の原因解明も飛躍的に進んでいると考えています。パーキンソン病やアルツハイマー病などは発生の原因がよくわかりません。原因を調べるためには生きた神経細胞が必要ですが、患者の脳などから取り出すのはたいへん難しく、原因解明が進みませんでした。しかし、患者の皮膚からiPS細胞をつくれば、神経の細胞をつくることができます。これを健康な人の細胞と比較すれば、難病が起こる仕組み、そして治療法に迫れるのです。

 理化学研究所では、iPS細胞を使って「加齢黄斑変性」を治療する臨床研究の計画が認められました。高齢者に多い失明の危険性がある難病です。日本はiPS細胞の研究で世界のトップ集団にいることは間違いありません。

 しかし、実用化に向けた制度設計の舵取りを誤れば、すぐにトップ集団から脱落するでしょう。「現在が未来を創る」ことを忘れてはならないと思います。

週刊朝日 2013年8月30日号