線量計を片手に、松尾芭蕉が歩いた道のりを折り畳み自転車で訪ねる旅に出た創作家のドリアン助川氏。日本三景の一つ、松島から東日本大震災で甚大な被害に遭った石巻へ向かう道中、ドリアン氏が目の当たりにした被災地の現状を語った。

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 塩釜港で自転車を畳み、松島遊覧の船に乗る。芭蕉もまた、舟で松島に向かったからだ。次々見えてくる小島の群れを、芭蕉はどんな表情で受け止めたのだろう。「松島の月まず心にかかりて」と深川を出発した芭蕉。「扶桑第一の好風にして」(日本一の風景だ)で始まるこの海浜の描写は、才を尽くした形容で溢れている。だがどういうわけか、芭蕉は松島で一句も詠んでいない。しかもたった一日で通り過ぎている。伊達藩に入ってからあちこち執拗(しつよう)に足を延ばしているのにである。解せない、といまだ研究者の間で意見が分かれるところだ。芭蕉隠密説もここから発している。

 隠密ではないが、線量計を持った私は東松島の海岸線に沿い、再び石巻へと向かう。ここから先は津波で壊滅した場所が続く。

 JR仙石(せんせき)線の東名(とうな)駅は、プラットホームだけがぽつんと残っていた。破壊されたままの家々。カーテンが風で揺れている。住人はどこに行ってしまったのだろう。野蒜(のびる)駅は架線を支える鉄骨がホームに崩れ落ちていた。駅前のコンビニも崩壊したまま。唖然としていると、人影ひとつない荒れ地に防災無線が流れた。若い女性の声だった。

「今日は9月11日です。あれから一年半が過ぎました。お亡くなりになった皆さんのご冥福を祈り、黙祷(もくとう)を捧げたいと思います」

 草で覆われた踏切の前で、私は目を閉じるのではなく、なぜか胸に手をあてていた。

週刊朝日 2012年12月7日号