1959年にジャズ専門誌へ投稿したことをきっかけに、音楽評論家となった湯川れい子さん。大きな仕事が入るようになって売れてくると、「あまりありがたくない」肩書がつけられたりしたが、あえて受け入れていたという。当時の様子を音楽ライターの和田靜香氏がこう記す。

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 最初の大きな仕事は、61年のお正月に来日した、当時日本でも大人気のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズへのインタビュー。自ら英語で挑み、記事を書くと、ほかの雑誌からも原稿依頼が次々に舞い込んだ。

 その一つ、ハードボイルド雑誌「マンハント」にいた編集者の森田和雄が湯川にほれ込み、派手に売り出してくれた。彼は「ソウル・ラヴ=大勢の異性と交わす精神的な愛」なる妙な新語を編み出し、その先駆者が湯川だとブチあげた。

 さっそく女性週刊誌などが大きく取り上げ、あまりありがたくない〝プレイガール″という肩書がつけられたが、あえて受け入れた。

 真っ赤なマニキュアを塗った指を2本立てて、「恋人は2人いるわ」などとリップサービスをすると、また原稿依頼がドッと来た。自分に何が求められているかよく分かっていたし、売れるためならそれもいいという気概だった。

〈売れて母を安心させたい。ひとりでも生きていける女性になりたい〉

 その思いに突き動かされていた。

※週刊朝日 2012年5月25日号