大震災直後、カキや海苔の養殖が盛んな宮城県東松島市に、36人の被災者がひとつの家族のように暮らす小さな避難所があった。その中心には、いつも笑顔を絶やさない「避難所のリーダー」がいた。だが、仮設住宅への入居が始まり、「大家族」はバラバラに。最後まで避難所に残ったリーダーは現在、精神科に入院しているという。

 彼は東松島市会議員の菅原節郎さん(61)。津波によって妻の郁子さん(当時53)と息子の諒さん(当時27)を亡くし、自宅も流されてしまった。

 それにもかかわらず、同じように家族を亡くした避難所のメンバーを気遣いながら、毎日せわしなく避難所を切り盛りしていた。

 朝は「おはようございまーす」とみんなに声をかけ、率先して掃除を始める。救援物資の洋服が届いたときには、「バーゲンセール始まるよー。早いもの勝ちだよー」と、大きな声で呼びかけ、避難所のメンバーを和ませたりもしていた。

 避難所は7月いっぱいで避難所は閉鎖された。そして、菅原さんの心身の異常を最初に感じ取ったのは、娘の杏さん(25)だ。

「父は、避難所を出てから落ち込むことが多くなりました。『生きる希望が見つからない』とか『本当は死のうと思ったけど、その勇気もないから今日も生きてしまった』とか、すごくネガティブなことばかり言うようになったんです」

 震災直後から東松島市でボランティア活動を行う酒田達臣さん(47)は、11月ころ、たまたま市内で菅原さんと会い、声をかけた。

「すごくやせていて『俺もうダメなんだ』ってしきりに弱音を吐いていたんです。だから、避難所のメンバーに声をかけて"励ます会"をやろうと思ったんです」

 しかし、12月2日に行われた「励ます会」に、菅原さんは現れることはなかった。同じ日、菅原さんは入院することになったのだ。

 菅原さん自身が、当時の心境をこう語る。

「避難所にいたころは、自分の目に見えるところに『お世話する人』がいた。でも、解散して、バラバラになってしまって。借家でひとりポツンといると、みんながどこで何をしているかがわからない。自分の将来もどうしたらいいかわからなくなって......。正直、自らの命を自分で閉ざすことすら考えていました」

※週刊朝日 2012年3月23日号