「お寺は天国でした。震災で家や仕事を失ったのですが、お寺によくしてもらったことは本当に幸せな思い出です」

 宮城県石巻市に住む阿部一比虎(かずひこ)(54)は、震災から3カ月にわたった梅渓寺(ばいけいじ)での暮らしをそう振り返る。

 梅渓寺は石巻市を一望する牧山(まきやま)の中腹に位置している。津波の被害を受けず、地震の揺れによる損害も軽かったため、震災当日の夕方には被災した檀家(だんか)や近隣住民ら百数十人が詰めかけたという。

 本堂を開放し、6月18日まで被災者らと生活をともにした住職の本田賢也(42)は言う。

「宗教者として何かやらなくちゃとか、そんな考えはなかったですね。たまたま寺が無事で、そこに多くの人が助けを求めてやってきた。追い返せませんよ。うちが寺でなくても、私が僧侶でなくても、受け入れたでしょう」

 阿部によれば、梅渓寺での避難生活は、とても平穏で温かなものだった。掃除や食事の準備も分担して行い、支援物資を届ける日本赤十字のスタッフが「こんなに掃除の行き届いた避難所は初めて見た」と驚いたほどだ。

 曹洞宗の僧侶によって設立されたシャンティ国際ボランティア会(SVA)の専務理事を務め、震災後に何度も現地入りした茅野俊幸(ちのしゅんこう)(45)もこう振り返る。

「学校や公民館を利用した避難所は、家族や財産を失った被災者のピリピリした空気のなか、ケンカが起きることもあった。でも、仏様がいるせいか、お寺に避難した人たちは温和な空気に包まれていましたね」

 何が違うのだろう。阿部は、和風建築のありがたみが一因ではないかと考えている。親類や友人らの安否を確認しようと、震災の数日後から各地の公民館や体育館を訪ね歩いたが、硬い床板の上で毛布にくるまっている姿が、とてもつらそうに見えたからだ。

「その点、お寺は畳敷きなんです。畳の柔らかさは人の心を癒やしてくれる。たくさんの人を収容できる畳敷きの建物というのは、お寺くらいしかないんじゃないかな」(阿部)

 震災後は、梅渓寺だけではなく多くの寺院が避難所になった。行政の指定避難所だったところはわずかで、ほとんどは住職の判断で開放された。

 このため、梅渓寺では震災から1週間ほどたつと、避難者から「このままお寺に甘えていていいのか」という声が上がったという。

 阿部が言う。

「私は梅渓寺の檀家だったから、それほど気にせず過ごせた。でも、たまたま逃げ込んできた人も結構いて、彼らは当初、すごくお寺側に遠慮していました」

 阿部はその声を住職の本田にぶつけた。すると本田はにっこり笑い、
「お寺はこういうときのためにあるんですよ」
 と返した。その言葉を思い出すと、阿部は今でも涙が出るという。
「やっぱり仏教を学んだ人はすごい。前から立派な住職だと思っていたが、あの言葉で惚れ直しました」

 一方、本田はそんな評を笑って否定する。

「あのときは私も怖かったんです。余震が続く中、独りで山の中の寺にいるのが。避難してきた人たちに私も元気付けられたんです」

 宮城県塩釜市にある東園寺(とうえんじ)住職の千坂成也(ちさかせいや)(45)も、震災後にお寺を開放し、亡くなった被災者への読経や仮設住宅への慰問活動を続けている。だが、梅渓寺の本田と同様、「宗教者だからやっているわけではない」と語る。

「寺を開放したのは、大した被害がなかったからです。読経や慰問も、地域のために何かすべきだと思ったからで、宗教心からではないんです」

 千坂が近隣の住職仲間と行っている慰問に同行してみた。10人ほどの僧侶は、それぞれの車にコーヒーメーカーやお茶菓子などを積み込み、市内の仮設住宅へと向かった。

◆宗教色を隠して支援活動を行う◆

 仮設住宅の集会所でお菓子を配り始めると、たちまち子どもたちが駆け足で集まってきた。千坂が「オモチャいらないか?」と商店からもらったゼンマイじかけの自動車を見せると、「ほしい!」「おれも!」という声が上がる。

 一人の男の子が、もらったばかりの自動車を千坂の剃り上がった後頭部に押し付け、走らせて笑った。

「お前やったな!」。千坂は笑いながら男の子の肩をつかみ、軽々と身体を抱え上げた。千坂は元ボディービル選手で、体格はなかなかだ。そのまま全身の筋肉をぴくぴく動かすと、子どもたちがどっと沸いた。

 集会所で、女の子の宿題を手伝う僧侶もいた。高齢者も多く訪れ、僧侶がいれたコーヒーを手に世間話に興じている。

 穏やかで温かな光景だ。

 しかし、彼らが僧侶であることを思うと、違和感が浮かんできた。この場には宗教色がほとんどないのだ。

「確かに、自粛しているところはあります。宗教に対してはいろんな考え方があるでしょうし、『お坊さんが支援に来ました』と旗を掲げるのは、やめた方がいいと思ったんです」(千坂)

 彼らは別に、自分たちの宗教性を隠しているわけではない。格好こそポロシャツやTシャツにジーンズ姿だが、剃り上げた頭を見た人に「ひょっとしてお坊さん?」と聞かれれば、素直に認める。

 それでも、仏教の旗印を掲げ、被災者と語り合うことには、ためらいがあるようだ。千坂とともに慰問活動の中心メンバーを務める工藤速雄(そくゆう)(52)=塩釜市・慈雲寺(じうんじ)住職=が打ち明ける。

「仮設住宅で暮らすのは震災で家族や家財を失った人たちです。僧侶だからと中途半端に宗教的な対応をしたら、逆に相手を傷つけてしまうかもしれない。現在仲間たちと研修を受けているのですが、彼らと向かい合うには心理学などの専門的な勉強も必要です」

 慰問活動の帰路、千坂がつぶやくように言った。

「さっき私になついてくれた子どもがいたんですが、よく聞けば震災でお父さんを亡くしたらしくて......」

 そう語る顔には、被災地の重すぎる現実に、宗教者としてどう向き合えばいいのかを見定められない苦悩が浮かんでいた。

 一方、最初から宗教色は出さないと割り切って支援に臨んだのが新興宗教だ。

 立正佼成会やPL教団、妙智會(みょうちかい)教団などでつくる新日本宗教団体連合会(新宗連)や真如苑は、震災直後から宮城県気仙沼市、岩手県陸前高田市、大船渡市などにボランティアチームを派遣し、多額の義援金も送ってきた。

 だが、そうした地域の人に新宗連や真如苑の活動について聞いても、返ってくるのは「いたの?」「聞いたこともない」という声ばかり。新宗連事務局次長の生田茂夫(59)が打ち明ける。

「世間の一部には宗教アレルギーがあるので、教団の看板を掲げても、アンチが増えるだけで逆効果です。あえて目立たないように動いた部分はあります」

 新宗連では、派遣したボランティアを一般のNPO団体のもとで活動させた。活動時はNPOを名乗り、宗教者だとは明かさない。集まった義援金も様々な慈善団体に託したため、新宗連の名が伝わらなかったのは当然なのだ。それでも、生田は「被災者の役に立ったという事実が残ればいい」と割り切っている。

◆ミニ神棚を手に号泣する被災者◆

 名前を出さなかったという点では、真如苑の支援活動もほぼ同じだ。教団のボランティア組織「SeRV(サーブ)」を被災地に派遣したが、派遣される信徒に「真如苑の名は出さないように」と指示した。信徒は当初、「SeRV」と記されたビブスを着ていたが、意味を問う被災者が増えると、その着用もやめた。

 現地で活動の指揮を執った真如苑東北本部課長の川村裕之(51)が言う。

「信仰と支援は別です。被災地支援の現場に、我々の教義や信仰を持ち込むべきではないと考えています」

 日本最大の新興宗教・創価学会の動向はさらに静かだった。震災直後に42の教団施設を開放し、会員・非会員を問わず約5千人の被災者を受け入れ、被災地の各県庁には教団予算から義援金を送ることもしたが、直接的な支援はほぼそれだけ。被災地へのボランティア派遣や教団による募金活動もしなかった。

「宗教団体がお金を集めると誤解される場合もある。外部の専門的なボランティア機関の方が、効果的な支援を行えるのではないか」

 広報担当者はこう説明するが、一般会員からは反発の声も聞こえてくる。

「会員の間では、募金活動ぐらいはすべきだという声が出たが、上層部からの返答は『寄付は赤十字に持っていけ』というものでした。被災地の施設に受け入れた5千人の被災者も、多くは身内の会員だったし、これではやる気がないと言われても仕方ないのでは」

 宗教者や宗教団体が、宗教色を出さずに支援活動をすることをどうとらえればいいのか。超宗派の宗教者でつくる宗教者災害支援連絡会代表で、東京大大学院教授の島薗(しまぞの)進(63)は「間違いだ」と苦言を呈する。

「厳しい環境下でスピリチュアルな支えが必要な被災者も多く、宗教者が宗教者として活動する意味は十分あります。被災地で利益追求型の団体が、勧誘目的の活動に力を入れるのは困りもの。地元の宗教者は心を開き、被災者の立場で宗教的な支援活動を推進してほしい」

 確かに、被災地を回っていると、宗教が被災者の拠り所や支えになっている例はたびたび見聞きする。

 たとえば、800年の歴史で初めて津波の被害を受けた岩手県山田町の荒神社(あらがみしゃ)。

 本殿は残ったが、鳥居や社務所は流され、宮司の西舘勲(84)は仮設住宅で暮らす。氏子の被害も甚大で、西舘は震災の直後には、
「これほどの目にあった人たちは、『神も仏もいるもんか』という気持ちになっただろう。これから日本の宗教はどうなるのだろう」
 と真剣に悩んだという。

 それでも神主としてできることをしようと、西舘は簡易式の「ミニ神棚」を1千個取り寄せ、町内の仮設住宅で配り始めた。受け取りを拒む人は皆無で、ある高齢の女性に至っては、受け取った神棚を押し抱いて号泣した。

 その光景を見た西舘は、「神様はやっぱりいらっしゃる」
 と確信を深めたという。

「神様は普段は神社におられて、人間が拝みに行く。しかし、こういうときには神様の方から神社を出て、人々を励まして回ってくれると思う。私はそのお手伝いをするため、氏子さんたちを励まし、荒れ果てた神社の片付けも精いっぱいやっていきたいんです。今は日本の宗教の将来に何の不安もありません」

◆「宗教」ではなく「信仰」を広める◆

 宮城県気仙沼市の地福寺(じふくじ)も、津波で墓地などが流され、約150人もの檀家が亡くなった。行き場をなくした骨つぼは、奇跡的に残った本堂に並べているが、ある日、一人の男性がそこを訪ねてきた。男性は一つの骨つぼの前に立つと、長い間肩を震わせていた。

 この光景を見た住職の片山秀光(しゅうこう)(71)は、
「お参りする場所が残ったことで、地域の絆や歴史が首の皮一枚でつながった。それが、震災で多くを失った人びとにとって、未来への希望になっているんだ」
 と感じたという。

 カトリック釜石教会でボランティア活動をする宇根節(うねたかし)(51)は、震災後の3月下旬に神戸市から訪れた。臨床スピリチュアルカウンセラーで、主に末期がん患者の心的ケア活動を行ってきたため、震災で動揺する被災者の心を慰められないかと考えたという。

 宇根がそう考えたのは、信仰心ゆえだ。

「信仰がなければ来なかったでしょう」
 と言う。宇根は支援活動のさなかも、キリスト教徒であることを隠さない。

「教会から来ました」と言うと、「キリストさんはいりません」と拒まれることがあるが、仕方ないと割り切っている。被災地に「宗教を広める」のはいかがかと思うが、「信仰を広める」ことは問題がなく、自らの信仰も隠すべきではないと考えているからだ。

 宇根の解釈では、「宗教を広める行為」とは、教団の規模や信者の数を大きくすることだ。これに対し、「信仰を広める行為」とは、自然を愛したり、神などの大きな存在と素直に向き合う心を広めたりすることだという。

 あるとき宇根は、津波で家族を失った漁業関係者からこう言われた。

「海は私からいろいろなものを奪っていったが、海を恨んではいない。これからも海とともに生きていく」

 都会育ちの宇根には衝撃的な言葉だったが、それも信仰心なのだと思い至った。そうした素朴な信仰心に包まれた東北は、なんと偉大な地なのだろう、とも。

 そんな気持ちを持ち続けて活動していたある日、被災者から相談を受けた。

「宇根さん、神様への祈り方を教えてほしい」

 その被災者と、カトリックの形式でしばし祈りを捧げた。こうした姿こそ、本当の信仰心だと思った。

 冒頭で紹介した石巻市の阿部一比虎は最近、「仏教とは何か」をよく考えるという。きっかけは言うまでもなく、梅渓寺で送った「幸せな避難生活」だ。

 梅渓寺で、何か宗教的な行事に触れたわけではない。住職の本田も「宗教心で寺を開放したわけではない」と言っている。それでも、仏教は阿部の心をつかんだ。

 この事実にこそ、人が宗教に魅了される本質があるのではないか。

 筆者はこう考える。支援活動を行う際に、宗教色を前面に出すかどうかは本質ではない、と。それよりも重要なのは、行為が信仰心に基づくものであるかどうかだ。本心からの信仰心が人の心を打ち、新たな信仰心を芽吹かせるのだ。

 未曽有の災害を乗り越え、東北全体でどれほどの信仰心が生まれるのか。それは、今後の復興の中で見えてくるだろう。 (文中敬称略)

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おがわ・かんだい 1979年、熊本県生まれ。早稲田大卒。2011年3月まで、宗教界の専門紙「中外日報」記者として伝統仏教から新興宗教まで多くの宗教団体を担当し、駒沢大の巨額損失事件などを取材した。


週刊朝日