今日から10月です。今の時代、10月といえば気候も穏やかで寒くも暑くもなく、文化活動をするにもスポーツをするにも、一年のうちで最適な時期になります。

ですが、旧暦時代の十月はすでに初冬。新暦でいうと、10月末から12月前半ごろにあたります。おなじみ和風月名では十月は「神無月」。他の月と同様、そのあらわす意味については諸説ありますし、印象的な名称のせいもあって比較的多くの人が神無月の意味について他の月名よりも関心や薀蓄をもっているようです。

ここでは一般的通説からもう一歩ふみこんで、「かんな(かみな)月」のあらわす意味をさぐっていきたいと思います。ちょっと複雑ですがお付き合いください。

日本における「神」は、人から隠れた場所に「ある」存在でした
日本における「神」は、人から隠れた場所に「ある」存在でした

「神の無い月」説と「神の月」説。実はどちらもおかしい!

「神無月」の意味については、

(1) この月、全国各地の神社に祭られる神々が、一部(恵比寿、諏訪明神)を除いて出雲に参集して留守になるので「神の無い月」。だから出雲だけは特別にこの月を「神在(かみあり/じんざい)月」と言う。

(2) 神無月の「無」は、助詞の「な(の)」であり「神の月」という意味である。本来この月に、神に神饌を捧げる重要な収穫祭「新嘗」が行われていたためである。

という相反する説があり、(1)(2)とも、メディアなどで薀蓄として語られるのでご存知の方も多いことでしょう。

しかし、(1)については、和風月名とは、「海外渡来文化が流入する以前の日本独自の口承文化時代から受け継がれてきた古い独自の月名」とされていて、もともと日本の神々は神社を必要とせず山や川、石や木々、動物であるとするアニミズム(精霊信仰)ですから、「神社を留守にするから神さまがいない」という解釈は、和風月名のコンセプトと矛盾しています。

出雲の「神在月」に関しては「神在=じんざい」はこの月、出雲で行われる鎮齋(ちんさい)=古い形の新嘗に先立つ斎戒の儀礼が語源とされています。

中世、伊勢神宮や出雲(杵築)大社では、現代のツアコンのような存在である御師が全国をまわり、参拝ツアーをうながす宣伝を行っていました。「わが神社にこの時期あらゆる神々が集まるのですからご利益絶大。是非おいでなさい」と伊勢神宮が宣伝しているがうさんくさいことだ、と『徒然草』(兼好法師)にも、記述されています。つまり、「神の無い月」という解釈自体が中世頃からの語呂合わせと考えられます。

(2)については、当コラムの「水無月」の解釈編でも述べたことと重複するのですが、「無」が「の」ならば、なぜ他の月には「無」がつかないのでしょう。水無月と神無月のみに「無=の」がつく理由、あるいは法則について古から説明がなされていません。また、十月が「神の月」というのなら、神を我が家にお迎えする正月(一月)、田の神を降ろす四月、夏越の祓のある六月、来訪神が多くやってくる八月や十二月はなぜ「神の月」ではないのでしょうか。ですので、十月を特別に「神の月」とする解釈は無理があるように思われます。「な」は助詞ではなく意味があって挿入されていると考えるべきです。

『倭訓栞』(谷川士清 1777~1887年にかけて刊行・完成)では、

神嘗月の義なるべし、我邦の古へも西土にも、神嘗祭は十月なりし事其證多し

とあり、「神嘗(かんなめ)」が語源である、としています。実際十月は古くは神嘗(新嘗)の月だったのですから説得力があります。同書では続けて出雲國造家の唱える説として、大物主神が八十萬神を引き連れて天に昇っていなくなった月だから「神無し月」とするもの、雷が鳴ることがなくなる=「雷無月」からとする説を紹介しています。

出雲國二之宮 佐太神社
出雲國二之宮 佐太神社

世界系神話類型「冥府下り」。ナギ・ナミ神話が意味する季節の移ろい

とはいえ、中世から近世にかけて隆盛となった国学による「神嘗」という稲作絶対主義の解釈を鵜呑みにするのも誤解の危惧があります。和風月名は稲作文化伝播より以前に起源を求めるべきだからです。

十月の異名は多くの名が伝わります。元冬(げんとう)、孟冬、始冬などの初冬をあらわすもの、時雨(しぐれ)月、小春月、雷無月、などの旧暦十月ごろの気候と関係したもの、玄英(げんえい)、建亥月(けんがいげつ)、応鐘(こたえるかね/おうしょう)などの漢籍由来と考えられるものなどです(「応鐘」とは中国音楽十二律の一音)。

しかしそんな中で目を引く月名は「御忌(おいみ)」でしょう。古神道を伝える卜部家の伝承では、神無月は日本神話の神々の母であり冥府の女王であるイザナミの命日の月だからとされています。なぜ十月はイザナミの神去った月とされているのでしょう。

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を追ひて、黄泉(よみのくに)に入りて、及(し)きて共に語る。時に伊弉冉尊の曰(のたま)はく、「吾夫君(わがなせ)の尊、何ぞ晩(おそ)く來(いでま)しつる。吾已(すで)に湌泉之竃(よもつへくい)せり。然れども、吾當(さき)に寝息(ねやす)まむ。請ふ、な視ましそ」とのたまふ。伊弉諾尊、聴きたまはずして、陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆづつまぐし)を取りて、其の雄柱を牽き折(か)きて、采炬として、見しかば、膿沸き蟲(うじ)流(たか)る。(中略)時に伊弉諾尊、大きに驚きて曰はく、「吾、意(おも)はず、不須也凶目(いなしこめ)き汚穢(きたな)き國に到(き)にけり」とのたまひて、乃(すなは)ち急(すみやか)に走(に)げ廻歸(かへ)りたまふ。時に、伊弉冉尊、恨みて曰はく、「何ぞ要(ちぎ)りし言(こと)を用ゐたまはずして、吾に恥辱(はち)みせます」とのたまひて、乃ち泉津醜女(よもつしこめ)八人、一(ある)に云はく、泉津日狭女(よもつひさめ)といふ、を遣して追ひて留めまつる。

(『日本書紀』神代上 第五段 一書第六)

神去ったイザナミを追い、冥界にやって来たイザナギ。妻と再会し、なつかしく語り合いますが、「もう寝る」というイザナミの「寝ている姿を見ないでください」という請願を破って火をともし、腐敗した凄惨な妻の姿を目撃してしまい、あわてて逃げ帰って恨みを買う、という筋書きです。

この後、次々に来る黄泉の追っ手を逃れ、ついにはイザナミ自身が追いすがるのをイザナギは泉津比良坂(よもつひらさか)まで逃げ帰り、千人所引磐石(ちびきのいわ)で坂道をふさぎ、黄泉と現世とに結界を設け、イザナミが現世に現れ出ないよう封印してしまいます。

この神話は、冥府下りの類型として、世界各地に類似した物語が伝わります。特にギリシャ神話のペルセフォネーの物語は典型例です。大地母神デーメーテルの娘ペルセフォネーを冥府の王ハーデスが連れ去り妻としたのを、デーメーテルが嘆き悲しんだために世界中は生気を失ったので、天帝ゼウスはヘルメスを使いに出し、ペルセフォネーを帰してやるようハーデスに依頼します。

ハーデスは聞き入れますが、帰る間際に、冥府に実ったザクロを与えます。ペルセフォネーは12粒のうち4粒を食べてしまいます。神々の合議で冥府の食べ物を口にした者は冥府に留まらねばならないという取り決めがあったので、ペルセフォネーは冥府に帰属する運命から逃れられなくなりました。ただ、全てではなく1/3を食べたのみなので、それにあたる期間を冥府で、残りの期間を地上で過ごす、ということになりました。こうしてペルセフォネーが冥府に降りる期間は、デーメーテルは地上に実りをもたらすことを取りやめ、「冬」という不毛の季節がこの世にもたらされるようになった、という神話です。

ペルセフォネー神話が冬という季節の起源を語る物語になっているのと同様、イザナミの死が旧暦十月、つまり孟冬に設定されているのも冬の到来を象徴したものといえます。

史跡 黄泉津比良坂
史跡 黄泉津比良坂

「かむな」とは冬の到来を意味する?

旧暦十月十日の夜には「十日夜(とおかんや)」と称する民間行事があります。東日本、特に新潟、長野、山梨から北関東にかけて盛んで、春の耕作の開始時期から田畑に立って作物を見守ってきた案山子(かかし)を引き上げ、作物神の依代として、畑の作物やを供えます。また村落の子供たちが「藁鉄砲」と呼ばれる稲藁を束ねて縄でぐるぐると縛って棒状にした呪具をもち、村の道を叩いてまわります。

十日夜は別名「大根の年取り」と言い、西日本にはほぼ同じ行事が旧暦十月の亥の日の「亥の子」として伝わります。こちらは藁鉄砲ではなく、石で道を叩いてまわります。

藁鉄砲や石で道を叩く理由は、民俗学では「大地の精霊に活力を与える」などと説明されていますが、そうでしょうか。悪霊ならともかく、精霊(神)をひっぱたいて活力を与えるなどという乱暴な信仰はあまり聞いたことがありません。

古語で「なふ(なう)」とは「平ふ/均ふ/正ふ/直ふ」であり、でこぼこの土地を平らにならす、もとの状態に復元する、という意味になります。

十日夜の地面を叩く行事は、春以来土を掘り起こし、耕作をして大地を荒らした営みの終わりに、土を均(なら)し、自然本来の状態にリセット(掃除)する意味ととらえるべきではないでしょうか。

「神(かみ)」(カミ/クマ/カム)という和語の語源は、「被(かむ)る」「隠(くま)る」などの意味で、山や森、谷の奥や洞窟などの人の足が及ばぬ奥地に隠れていて、水や光などの霊力を送り込む力/作用のことでした。「山」「闇」「谷津」に隠れているカミは、卯月八日、村人たちの迎えに応じて里に降りてきて歓待を受け、田畑に留まり、耕作の手助けをすると信じられていました。そして十日夜、亥の日をもって、丁重に送られて山へと帰って行くのです。

つまり「神=隠+直る」で「かむな(かんな)」です。わざわざ里に降りてきて人のために手を貸していた隠=カミが、この行事をもって本来の隠れた聖所に「直る(戻る)」のです。

古語ではヤドカリのことも「かむな」と言います。巻貝の秘所にひきこもるこの小さな甲殻類のように、神が本来の見えない聖なる存在となる、その時期を「かんな」とあらわしたのではないでしょうか。そしてそれはそのまま、生物の活動が停止・低下する冬の季節の到来を意味したので、神々の母であるイザナミの命日も、この月になったと言えるのではないでしょうか。

参考・参照

日本書紀 日本古典文学体系 岩波書店

佐太神社 神在祭(お忌さん)

千引の岩
千引の岩
 黄泉の入口ともいわれる猪目洞窟
黄泉の入口ともいわれる猪目洞窟