9月12日は「宇宙の日」。宇宙の果てについて考えたことはありますか? 〈tenki.jp〉|AERA dot. (アエラドット)

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9月12日は「宇宙の日」。宇宙の果てについて考えたことはありますか?

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9月12日は「宇宙の日」。宇宙開発の国際協力と地球環境問題の認知普及を目的に国連により制定された国際宇宙年の1992年、日本でも独自の「宇宙の日」の制定の機運が上がり、1993年に正式に制定されました。9月12日になったのは、まさに1992年のその年に、毛利衛氏が日本人宇宙飛行士として初めて宇宙空間へ飛び立った日だったため(日本人初の宇宙飛行経験者は、旧ソ連のソユーズTM-11による1990年のTBS記者の秋山豊寛氏)。毛利氏が搭乗したスペースシャトルはそのミッションを終えていますが、宇宙に関する研究は日々刻々と進化し、新たな事実が次々と解明されています。けれどもまだまだ謎が多く、わからないことだらけです。

古くて新しい「宇宙」という概念

「宇宙」という言葉(熟語)は、遅くとも春秋時代(BC8世紀~BC3世紀)には中国で使われるようになりました。道教の祖・荘子(BC369~BC286年頃)は天空も含めた世界全体を指す言葉として宇宙を使用しているばかりか、平行宇宙、つまりフィクションでたびたび登場するパラレルワールドの概念らしきものすら叙述しています。
そして「淮南子(えなんじ BC179年頃~BC122)」の「巻十一/斉俗訓」では、道(タオ)のありかについて説明する箇所で、
往古來今謂之宙、四方上下謂之宇。
と記し、四方上下、つまりこの世界の空間全てを「宇」、往古來今、つまり過去と未来と今、時間全てを「宙」であるとし、「宇宙」とは時空間の意味であるとしています。
東洋では紀元前すでに、アインシュタインが扉を開いた現代物理学の原理、相対性理論での時空原理「ミンコフスキー時空」と通じる概念を作り上げていたことは驚くべきことです。
日本では漢籍由来の「宇宙」という言葉は、「天下国家」つまり「邦域」を、少しかっこつけて叙述するときに使われていました。そしてむしろ、サンスクリット語由来の仏教用語としての「世界」が、「実在が生起し輪廻するこの世」という、どちらかというと今で言う宇宙に近い、大きな意味で使われていました(後に世界は「世間」「業界」「界隈」的な意味へと徐々に変わってゆきます。)。仏教の説法などで一般庶民にもよく使われてきた「世界」という言葉に対し、難しい漢籍を読み下せる者でなければ知らない「宇宙」は、あまり使用されることのない言葉でした。
明治維新を迎え、西洋の科学文明が広く取り入れられるようになると、当時の英中辞典で「universe」の訳語に「宇宙」があてられたことを受けて、日本でも現代の意味での「宇宙」が普及するようになりました。同じく宇宙を意味するギリシャ語のκόσμος由来の「cosmos」も宇宙の意味として英和辞典に載るようになります。
でも、ユニバースというと今ではたとえばミス・ユニバースとかユニバーシアード、総合大学の意味universityなど大学関連の言葉と言う印象のほうが強いのではないでしょうか。コスモスも、秋の花の名前や「コスモポリタン(世界市民)」のような言葉の印象が強く、あまり宇宙を表す英語としては今では使われない傾向があります。
それに代わって現代ではspaceもしくはouter spaceのほうが「宇宙」の意味での使用例が多いでしょう。「空間」を意味するスペースが宇宙という意味として盛んに使われるようになったのは、第二次大戦以降のこと。人類が地上での紛争に飽き足らず、上空、つまり何もない空間=spaceにロケットを発射し、「宇宙空間」の覇権を競いだしたことが理由です。
JAXA(宇宙航空研究開発機構)では、厳密な規定はないものの、universeとは広大な宇宙全体を指す用語、対してspaceは地球から人類が関与できる成層圏外の宇宙空間、月や太陽系などの近距離宇宙(といってもとてつもなく広大ですが)のこと、という便宜上の使い分けをしているようです。

SFのように火星や木星に宇宙旅行できないのはなぜ?

20世紀に盛んになった文学ジャンルにSF(science fiction)がありますが、それらのSF小説で描かれる21世紀初頭―つまり今現在の時代についての想像では、たとえば1968年に公開された「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)」で、人類は月に移住し、木星への有人飛行にも着手出発しています。しかし現実では、今年2019年の時点でも、人類は木星はおろかアポロ計画終了以降、月にすら行ってはいません。近年しばしば火星への有人飛行の可能性が噂されますが、実現はまだまだ先のようです。「どうして?月にも行けるんだから火星にも行けるんじゃない?」と思ってしまいがちですが、月と火星では地球からの距離が桁違いなのです。もっとも地球に近い天体である月と地球の距離は約38万kmですが、地球の隣の惑星、地球から三番目に近い天体の火星の距離は、もっとも接近したときでも7000万km、離れているときには2億km以上あります。月の何百倍も距離があるため、現在の人類の宇宙探査機の飛行機能では、片道2年もかかる長旅になってしまいます。燃料や食料、搭乗者の心身の健康など、さまざまな問題がクリアされなければなりません。アメリカのトランプ大統領は、NASAが目指す2024年の再びの月への有人探査を中止してでも、なるべく近いうちに火星を目指すべきだと主張していますが、果してどうなることでしょうか。

「宇宙の果てはどうなってる?」この問いのもどかしさの理由とは

小学生に宇宙についての質問を募ると、
「宇宙人はいる?」
「ブラックホールの中に入るとどうなるの?」
「宇宙の果てってどうなってるの?」
の三つが飛びぬけて頻出するんだとか。
私たち大人もぶっちゃければ同じでしょう。特に「宇宙の果てはどうなってるの?宇宙の外側ってあるの?外側はどうなってるの?」という問いは、あまりに壮大で想像もつかず、悩ましいものです。子供の頃、寝床で「宇宙の果て」について考えていて、奈落に落ちていくような恐ろしさに襲われ、急に心細くなったなんて想い出が、きっと誰にもあるかと思います。
「銀河」(星雲)という星の集団が、銀河系の外にも無数にあることを発見したエドウィン・P・ハッブル(1889~1953)が1929年、星の光のスペクトルの赤方偏移を観測、宇宙が膨張していること、地球から距離がある銀河ほど遠ざかる速度が速いことを見出しました。そうすると、この宇宙では光よりも速い物質は存在しない、ということになっていますから、遠方宇宙の遠ざかる速度が光の速度(近似値秒速30万km/秒)と等しくなったとき、地球の観測者からはその地点から遠方はもはや見えなくなります(観測の限界曲面)。光が届く(こちらに向かってくる)のと遠ざかる速度が等しければ、永遠にその光は観測者まで届かないからです。これが宇宙の地平線で、地球から見たときの「宇宙の果て」といえます。けれども、もしこの地球から見た宇宙の地平の場所にある星に知的生命がいて、その宇宙人が外宇宙を観測しているとすると、その観測者にとっての宇宙の地平線はまたその彼方にあることになり、永遠の逃げ水のように地平線は次々と現れます。ですから結局のところ「果てはない」「無限である」としか言い得ないのです。まさに「答えのない答え」そのものですよね。
実在とは、内と外、自と他が分かたれることによりはじめて現出するものですから、必然的に実在は有限なものです。実在する存在である人間の想像力が有限性に縛られてしまうのもまたそれゆえに必然であり、「無限」なるものを人間が把握してイメージするのは不可能だといえます。もしかしたら宇宙の地平線の向こうとは、精神と物質、自己と他者、生と死、全ての分かたれたもの=有限なものが合一し、無限へと帰る場なのかもしれません。
日本宇宙フォーラム 「宇宙の日」記念行事


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