GWもたけなわです。怒涛の祝日目白押しの大とりを務めるのがご存知「こどもの日」。もともとは男の子の健やかな成長を願う「端午の節句」だった、なんて知らない人はないですよね。もちろん今もちまきや柏を食べ、五月人形とこいのぼりを飾って男の子の健やかな成長を祝います。鎧兜の五月人形が室内飾りで雛人形と対比できるのに対して、端午の節句ならではの独特の風習がこいのぼりです。水が張られた水田と新緑、五月晴れを背景にこいのぼりが勇壮にたなびく光景は、日本の里山の典型的な原風景といえるかもしれません。でもこのこいのぼり、実は一度絶滅してた、という話はご存知ですか?

明治六年、明治政府は「五節廃止令」を布告した

江戸幕府が、江戸時代を通じて式日と定めていたのが「五節供」(現在の節句)です。陰暦の人日(じんじつ・一月七日)、上巳(じょうし・三月三日)、端午(たんご・五月五日)、七夕(しちせき・七月七日)、重陽(ちょうよう・九月九日)を避邪(ひじゃ)の日、すなわち旬の草木を供えたり食べたり体に擦り込んだりすることで、邪気を祓う行事をおこなう祝日と定めました。ひな祭りの桃も、そして端午の節句の菖蒲や蓬も、ここからきたものです。
明治政府は、明治5(1872)年、旧暦から太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を布告、これにともない翌年「今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ (暦を改めるのに伴い、人日・上巳・端午・七夕・重陽の五節句を廃する)」との太政官布告を発しました。
もちろんこれはあくまでも五節句の祝日を廃止する布告にすぎず、民間で五節句を祝うならわし自体を禁じたものではありません。でも人々は、もう祝ってはならなくなった、と受け止め、布告を境に節句の行事や習俗はことごとく廃れ、衰退することになったのです。七草粥も雛人形も、七夕祭りも菊花酒や秋雛も、です。それでも細々と存続した室内人形飾りとちがい、安永年間(1772~81)の江戸中期にはすでに登場し、江戸後期にはより隆盛を見せるようになっていたこいのぼりを含めた外幟(そとのぼり)は一挙になくなってしまったのでした。
それから約二十年後の明治27(1894)年の「幼年雑誌」では「五月五日は端午の節句と称し今より二三十年前迄東京に於ては男児ある家にて各々我家の定紋附けたる幟及び鍾馗(しょうき)を画きたる幟、紙若くは巾(ぬの)きれにて造りたる鯉の幟を家の外に立て又家の内にも小幟、冑人形、青龍刀抔などを飾り祝ひたるものなり、現今に於ても鯉幟を立て又は座敷幟(ざしきのぼり・室内に飾る小幟)を飾る家ありと雖(いえども)往時の如く盛にはあらず」と、「わずかに残る珍しい古いしきたり」のように説明しています。こいのぼりになじみのない読者のために「紙もしくは布で作った鯉の幟」とわざわざ解説しているとおり、一時期こいのぼりが絶滅していたこともわかります。
とはいえ、この記事の明治20~30年代ごろから、徐々にこいのぼりが復活し始めていたようなのです。これは、その時代のある大きな出来事、つまり日清戦争(1894~1895)が関係していました。
国内では日本の軍隊拡大強化に伴い、男子に勇猛・勇敢さを求める機運が高まり、それを仮託したこいのぼりや鎧兜などの風習が見直されはじめたのでした。この傾向は、10年後の日露戦争(1904~1905)でますます拍車がかかり、大正2(1913)年には「こいのぼり」の唱歌が登場します。
ゆたかに振(ふる)う 尾鰭には 物に動ぜぬ姿あり
百瀬(ももせ)の滝を 登りなば 忽(たちま)ち竜に なりぬべき
わが身に似よや 男子(おのこご)と
なんとも勇ましい歌詞ですね。

「鯉幟」のメンバー変化も時代を反映していた

さて、こいのぼりは今でこそ、さおの先端の回転球と矢車の下に吹流し、黒い真鯉、赤い緋鯉、青や緑やオレンジの小さい鯉が連なるというセットが一般的ですが、時代によってそれも大きく変遷してきました。
江戸時代の歌川広重の浮世絵「水道橋駿河台」に描かれたこいのぼりは、シンプルなさおに一匹の真鯉がたなびいています。吹流しや旗のぼり、鍾馗の幟なども見えますが、それぞれ別個のさおに掲げられていて、初期のこいのぼりの揚げ方がこのようであったことがよくわかります。ちなみに、武家の旗指物や吹流しの幟に対抗して、江戸町民がこいのぼりを発案した、という話がまことしやかに流布していますが、これは根拠のない俗説です。
実際には、江戸にいる中~下級の諸藩士は、譜代の旗本や大名のように旗指物や吹流しを外に飾ることが許されなかったので、かわりに飾ったのが鯉を描いた幟だったのです。それが次第に庶民にも伝播したのでした。
最初は一匹だったこいのぼりは、明治後半の復活期にひとつのさおに二匹・三匹の真鯉を飾るようになりました。これは男兄弟一人にひとつずつ、ということで二人三人いる家庭では兄弟分揚げるようになったからでした。さおの先端には駕籠玉(竹を編んだボール状の飾り)と矢車、そして吹流しもこいのぼりと同じさおに掲げる揚げ方も登場するようになりました。
昭和6(1931)年に発表された新しい童謡「こいのぼり」では
やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる
「緋鯉」が登場し、当初兄弟たちだったはずの真鯉が「お父さん」となって、父子関係と見立てられるようになります。
複数の鯉を「家族」に見立ててしまったことで、戦後には「何でお母さんがいないの?女の子は?」という不満(?)が出たのか、緋鯉をお母さんに見立て、さらに下位ヒエラルキーの青鯉、緑鯉、橙鯉などの「子供たち」が登場して、戦後のこいのぼりは一気にカラフルな大家族となりました。

戦後・作者不詳の歌詞の加筆改変とこいのぼり達の大集結

昭和57年発行の「しょうがくせいのおんがく1」(音楽之友社)に、今まで存在しなかった「こいのぼり(1931年版)」の歌詞の二番が突然登場します。
やねよりたかい こいのぼり
おおきいひごいは おかあさん
ちいさいまごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる
歌詞の作者は不詳です。ちゃんと作者のある著作物に、勝手に付け加えて流布していいのでしょうか。しかも、「一番」(そもそも一番ではありませんが)の歌詞とも内容が矛盾していて、読んでいて混乱します。
それはともかく、最近の新しい傾向として男の子たちが大人になり飾られなくなったこいのぼりを大きな川や公園などに集結させ、何百何千ものこいのぼりを泳がせる「こいのぼりフェスタ」が、全国のあちこちで見られるようになりました。
こどもたちみんなの健やかな成長を願う「こどもの日」らしい新しいかたちの掲げ方で、こちらはこだわりのない自由さやにぎやかさがなかなか壮観ですよね。
地域によっては「うなぎのぼり」「鯛のぼり」などの変り種も存在します。連休後半、見物にお出かけしてみてはいかがでしょうか。
世界の民謡・童謡 「こいのぼり」