
「ベストセラー解読」に関する記事一覧

あひる
今村夏子は寡作で知られる。6年前に三島賞を受賞した『こちらあみ子』が刊行されて以降、世に出た作品は、同作の文庫化のために書かれた1作しかなかった。だから、昨春、地方出版社が創刊した文芸誌に今村の新作が載ると、ファンは喜んだ。芥川賞の候補にもなったその短篇が、今村の2冊目の作品集『あひる』の表題作である。 「あひる」は、知人から頼まれてあひるを飼うことになった家族の変化を描いている。語り部は娘で、彼女は2階で資格試験の勉強をしつつ庭の様子をうかがう。前の飼い主が“のりたま”と名づけたあひるが来てから、子どもたちが頻繁に遊びにくるようになったのだ。両親は子どもたちを歓迎し、のりたまと遊ばせるだけでなく、客間で宿題をさせたり、お菓子をふるまったりする。働いたことがない娘はもちろん、離れて暮らす息子夫婦にも子どもがいないため、両親は〈孫がたくさんできたようだ〉と子どもたちを可愛がる。しかし、父親が、体調を崩したのりたまを動物病院へ運んでいくと、子どもたちはぱったりとこなくなる。2週間後、帰ってきたのりたまは、なぜか小さくなっていたが、娘は両親に何も言えないまま口をつぐむ……。 あるべき言葉が正しくそこにあって、淡々と簡潔に文章が展開していく。デビュー作から読者を惹きつけてきた今村の文体には磨きがかかり、テンポよく読み進めるうちに、不吉な影を感じてしまう。それは、家族が、日常がいつしか溜めこんでしまった、おそらく私たちにも訪れる危機の前兆なのだろう。 寡作の人はまた傑作を書いた。

おじさん仏教
子どものころ、大人は立派だと思っていた。自信たっぷりで、怖いものなさそうで。ところが自分が中高年になってみてわかった。ほんとうの中高年は、不安と後悔と嫉妬と怒りでいっぱいなのだ。 小池龍之介『おじさん仏教』は、若い僧侶が悩める中高年男性に助言する本である。第一部で「おじさん」の具体的な悩みに答え、第二部で仏教理論と悩みの関係を解説する。第三部には蛭子能収との対談を収録。 第一部のお悩み相談がリアルだ。「誰からも評価されていない」と嘆くOA機器会社の50歳。起業して成功した元同僚に嫉妬するIT会社の45歳。妻が大切にしてくれない、家庭での地位はペット以下だとぼやく地方公務員51歳。新橋あたりの居酒屋で、隣のテーブルから聞こえてきそう。 こうした悩みに対して著者は、自分が置かれている状況を直視して相対化する方法をユーモラスに説く。煩悩にどっぷり漬かっているからつらいのである。 ストレスの元は煩悩だ。主要な煩悩は「欲」「怒り」「無知」の三つ。さらに欲の一種として「見」と「慢」。無知とは感覚のセンサーが鈍く、目の前の現実に興味をもたなくなること。いま・ここに集中すれば、煩悩を振り払うことだってできそう。坐禅なんて組めそうにないけれども、つらいとき「これは煩悩だ」と思えば楽になる。仏教は意外と役に立つ。 異色の僧侶として知られる著者は78年生まれ。38歳の若造ならぬ若僧にオレの何がわかるか、と反発するおじさんもいるかもしれない。でも、酒を飲んで暴れたり薬に頼るより、まず一読を。


紙の城
10年後、新聞はどうなっているだろう。今のままか、違う形態になっているか、それとも消滅しているか。 本城雅人の長編小説『紙の城』は、IT企業による新聞社買収を描く。200万部の全国紙を発行する東洋新聞が、新興のIT企業に買収されようとしている。社会部デスクの安芸稔彦は、同僚たちと買収阻止に向けて動く。タイムリミットは2週間。はたして買収を止められるのか……。 本作はエンターテインメントとして成功しているだけでない。登場人物たちによる議論には、新聞の現在と未来について考えさせられる。 たとえばIT企業の会長は「今の新聞はコストがかかり過ぎています」と言い、宅配制度、記者の数、経費の使い方、広告のアプローチ方法など、すべてを見直せと迫る。 若手記者は「新聞は公正中立だと言いますけど、実際は国家の代弁者です。国内問題では政権に真っ向から対立もしますが、外交問題になれば国策にマイナスになるようなことは書かないですし」と発言する。そのほか、記者クラブ制度や新聞社間の協定、さらには軽減税率のことなど、新聞には載りそうにないことが書かれている。 だからといって、新聞に未来はないと主張しているわけではない。それどころかこの小説は、新聞が持っている潜在的な力と未来への可能性をたくさん示している。たとえばある登場人物は、新聞が本腰を入れてポータルサイトの運営に乗り出していたら、IT企業はここまで成長できなかっただろうと語る。 何を残し、何を捨て、何を変えていくのか。新聞はいま決断を迫られている。

九十歳。何がめでたい
佐藤愛子のエッセイ集『九十歳。何がめでたい』の魅力は、このタイトルに集約されている。次のような文章を読むと、そう思う。 〈ああ、長生きするということは、全く面倒(めんど)くさいことだ。耳だけじゃない。眼も悪い。始終、涙が滲(にじ)み出て目尻目頭のジクジクが止らない。膝からは時々力が脱けてよろめく。脳ミソも減ってきた。そのうち歯も抜けるだろう。なのに私はまだ生きている〉 病院の待合室へ行くまでもなく、日本には病を抱えた長寿の人々があふれている。認知症への不安は消えず、介護の問題もつきまとう。昔から寿(ことほ)がれてきたとはいえ、いったい長生きの何がめでたいのか、当事者である佐藤は困惑している。思えば、82歳で逝った私の母も同じようなことをこぼしていた。 しかし、佐藤の戸惑いは歯切れがいい。自他ともに認める猪突猛進の人らしく、テンポよく、しかも怒気をはらんで嘆いている。怒りにかられた猛進は時に彼女を難局に直面させてきたが、一方でその災難を突破する力にもなってきた。そうやって90歳代を迎えた人の、経験に裏打ちされた言葉がこのタイトルなのだ。上品ではないが、潔い。 佐藤ならではの怒気と潔さは、個々のエッセイにも満ちている。「いちいちうるせえ」などはその白眉で、正論をかざしてあれこれ細かく文句をつける世相に怒った末に、そんな自分を〈ヤバン人〉と認めてしまう。そして、〈闘うべき矢玉(やだま)が盡(つ)きた〉からとエッセイの連載を終了する。 おそらく多くの読者は、佐藤の「潔い野蛮」に魅せられているのだろう。やはり、文は人なりである。

世界のエリートがやっている最高の休息法
しばらく前から「マインドフルネス」という言葉をよく目にする。アメリカのセレブたちがハマっているなんて噂も聞く。久賀谷亮『世界のエリートがやっている最高の休息法』は、タイトルにこそ謳われていないがマインドフルネスの入門書である。著者はアメリカ在住の精神科医。 脳科学の進歩により、脳の各部分がどのような働きをするのか、細かく分かってきた。その結果、ぼんやりしているときでも脳の一部は活発に働いていることが判明した。デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)という脳回路だ。DMNは脳の消費エネルギーの60~80%を占めているというからすごい。休んだはずなのにすっきりしない、丸一日ぼーっとしていたのに疲れがとれないという理由はこれらしい。 DMNなどというと大げさだが、ようするに気になって頭からはなれないことや心配事。ご飯を食べていても布団に入っていても、どこか心にひっかかっている。このDMNを休ませるのに効果的なのがマインドフルネス、アメリカ式瞑想法なのだという。 本書は2部構成になっていて、第1部は瞑想のやりかた編。ページ数にすると全体の1割にも満たない。瞑想のやりかたは簡単だ。禅の瞑想や内観療法、自律訓練法などと近い。本書の大部分を占める第2部は瞑想と脳科学を題材にした物語で、いわば第1部の応用編だ。 書店ではどこもこの本が積まれ、売り上げ1位になっている店もある。しつこい疲労感に悩んでいる人が多いということなのか。でも、子育てとか老後とか、世の中の不安を減らすのが先決では?
特集special feature

薄情
今年度の谷崎潤一郎賞を受賞した絲山秋子の長篇小説『薄情』は、関東平野の北西端に位置する群馬県高崎市とその周辺が舞台だ。主人公の宇田川静生はこの高崎で生まれ育ち、地元の宮司である伯父の跡を継ぐために國學院大學を卒業して実家に戻り、今は神社を手伝ったりアルバイトに精を出して暮らしている。 30代前半とおぼしき宇田川は、他者との深い関わりを避けて生きてきた。人づきあいが悪いわけではなく、その気になれば、インターネットを介して知りあった女性とセックスだってする。しかし、尾を引くほど熱中することはない。結婚や将来への期待は薄いが、とはいえ人生に絶望しているわけでもない。 〈自分の内側になにかが足りない気は、ずっとしていた〉 それが何だったのか、なくなった今となってはわからない。そんな思いを抱きつつ、東京から移住してきた木工職人の工房に通い、同じように集う人々との会話を楽しむ。それぞれが持ち寄った日常の断片噺のやりとりは決して深入りすることはなく、だから宇田川には快かったのだが、その場所も、あるトラブルを機に変容してしまう。彼には近づけない空間となっていく。 冒頭からつづく宇田川の自問自答はこのあたりから深度を増し、句点のない彼の内省の言葉を読むうちに、こちらもあれこれ考えるようになる。都市と田舎、自由と不自由、大人と子どもなどの境界域に生きる彼の自覚と内省は、実は私にも通じているからだ。 はたして、薄情とは何なのか? 宇田川が辿りついた核心は、読後、すんなりと私の腑に落ちて離れない。

いま世界の哲学者が考えていること
20代のころは、「現代思想」や「エピステーメー」などの雑誌を、「流行通信」や「ブルータス」と同じような気分で買い、最新流行の思想をチェックしていた。30年以上も昔のことだ。書店も思想・哲学の棚は熱気を発していた。ニューアカ・ブームなんていわれていた時代だ。 最近はどうなっているのだろうと思い、岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』を読んでみた。世界の哲学の最前線について、わかりやすく、網羅的に紹介した本である。門外漢に向けたガイドブックだ。 いやはや、世界は(あるいは人類は)とんでもないことになっています! 人間が置かれている環境がこの数十年で大きく変わり、哲学者たちが考えるべき深刻な課題もたくさん出てきている。 たとえばIT革命とBT(バイオテクノロジー)革命。IT革命で便利になったことは多いが、世の中が監視社会化するなどの問題も抱える。人工知能が進化して人間の能力を超えたとき、人類は、そして世界はどうなるのか。 BTによって医療は急速に進歩している。ぼくらの寿命は延び続け、不老不死へと近づいている。「生」と「死」、「人間」という概念そのものが変更を強いられている。 そのほか、資本主義は21世紀でも通用するか、宗教はどうなるのか、地球環境はどうなるのか、考えるべきことがたくさんある。 本書を閉じて思った。日本の哲学者たちも社会の諸問題について、積極的に発言して欲しい。メディアも哲学者の意見をもっと紹介して欲しい。彼らの意見は、ぼくらが考える補助線になるのだから。

やり抜く力
米国内では「天才賞」とも称されるマッカーサー賞を3年前に受賞したペンシルベニア大学心理学教授、アンジェラ・ダックワース。彼女がその研究成果をまとめた『やり抜く力』はこう主張する。 どの分野であれ、人々が成功して偉業を達成するには、「才能」よりも「やり抜く力」が重要である──もともと才能があって努力すれば、他人よりも早くスキルが身につく。しかし、そこで終わってしまえば、達成はない。身についたスキルでさらに努力を続けて初めて、目標は達成される。成功には「才能」の優劣よりも努力の継続、つまり、「やり抜く力」が決定的な影響を及ぼすのだ。 この「やり抜く力」は「情熱」と「粘り強さ」という要素でできているらしい。自分にとって最も重要と定めた目標に対して不変の興味を抱きながら粘り強く取り組む「情熱」と、困難や挫折に負けずに努力を続ける「粘り強さ」がそろっていれば、誰もが目標を成し遂げられるとダックワースは説く。その上で、「やり抜く力」を伸ばす方法を詳しく紹介する後半は本書の美点であり、教育界、ビジネス界、スポーツ界だけでなく、子育てに悩む親をはじめ、多くの一般読者に評価される理由となっている。 継続は力なり、と昔からいう。ダックワースの結論をこれに倣ってまとめれば、継続こそが力なり、となる。……彼女の研究の集大成を読み進め、最後にあった「天才」の定義を目にしたとき、私はイチロー選手のことを思って納得した。 〈「天才」とは「自分の全存在をかけて、たゆまぬ努力によって卓越性を究めること」〉

住友銀行秘史
こんなヤツらにカネを預けて大丈夫なのか? 読みながらつくづく思った。 國重惇史の『住友銀行秘史』は、イトマン事件について当時の住友銀行内から観察したノンフィクションである。戦後最大の不正経理といわれる同事件は、たんに不正をやってバレて首謀者がお縄になった、というような単純なものではない。イトマン(伊藤萬)、そして同社に多額の融資をしていた住友銀行内の、派閥抗争・人事抗争も含むドロドロしたなかで起きたことだった。不正を諫めようとする者、それに乗じてひと儲けたくらむ者、人間の欲と感情がもつれ合う。 事件の渦中、著者は内部告発文書を何度も発信し、ときには新聞記者らと手を組みながら、行内の膿を絞り出そうと奮闘した。本書は著者が手帳に克明に記録していた文章を元に事件を再現するものだ。ほとんどの人物が実名で登場し、悪態も含めて著者が抱いた感情がストレートに記されている。ジャーナリストが書いたものにはない迫力を感じる。 バブルを象徴する事件だったのだとあらためて思う。繊維をメインにしていた老舗商社が総合商社になって、より拡大していこうとしてマネーゲームにはまりこんでいく。土地を使った錬金術や詐欺同然の美術品取引など、まるで小説のよう。 呆れてしまうのは、住友銀行会長の磯田一郎や住銀役員から伊藤萬社長になった河村良彦らの公私混同ぶりだ。老いても地位にしがみつき、身内に甘い汁を吸わせようと画策する。腐った幹部の取り巻きもまた腐っている。 でも、腐っていたのは住銀だけだろうか?

詩、ってなに?
小学生の頃、授業で実作まで経験したはずなのに、いざ「詩とは何か?」と問われると、すっきりとは答えられない。カラオケではいろんな歌詞を熱唱しても、現代詩なんて読んだことがない──多くの日本人にとって詩は、もうずいぶん前から縁遠い表現分野になっている。 そんな状況下、詩人の平田俊子が編者となった『詩、ってなに?』は、いくつもの企画で詩の世界へと読者を誘う。 まずは平田による、詩の創作実践を兼ねた「はじめに」。次に、彼女が先生となって計4回行われた、女優と音楽家の女性2人への創作指導ドキュメント。この3人に谷川俊太郎と歌人の穂村弘が加わって実施された、連句ならぬ連詩の制作ドキュメント。平田が選んで解説を添えた「読んでおきたい日本の詩十編」。俳優の佐野史郎と平田の対談。巻末には、有名無名問わず日本に暮らす老若男女45人が書いた詩をずらっと掲載している。 平田が詩を書くときに必要と説く〈大胆であること。繊細であること〉を反映させたような多彩な切り口をとおして伝わってくるのは、詩が自由に言葉を楽しみ、自由に味わう芸術であるということ。しかし、創作指導を受けて連詩にも参加した女優が〈今回詩を習って、詩って本当に自由だな、一番自由だなって思いました〉と感想を語ると、谷川はこう言いきった。 〈それが最大の欠点なんですけどね〉 さて、自由が最大の欠点である詩とは何か? 推敲を必要とする自由表現か? 編者の平田は昔も今も自問し、これからも答えは見つかるはずはないと自覚しながら詩を書いている。

怒り
吉田修一の『怒り』が新刊として発売されたのは2年余り前だが、この秋、映画化によってあらためて注目されている。これを機に新しく巻かれた文庫本のカバーには、渡辺謙ら出演俳優の顔写真が組まれ、華やかだ。 八王子の郊外に暮らす若い夫婦が自宅で惨殺され、目撃情報から精緻なモンタージュ写真が作られる。犯人は山神一也、27歳。すぐに全国に指名手配されるも手がかりがないまま1年が過ぎた夏、房総の港町で働く親子、東京の大企業に勤めるゲイの青年、沖縄の離島で母と暮らす少女の前に、身元不詳の男が現れる。当初は訝られながらも、男はほどなく受けいれられていくのだが、警察が整形手術後の山神の写真をテレビ番組で公表したあたりから状況は慌ただしくなる。この男は殺人犯ではないかとの疑念が3者それぞれに湧きあがり、彼らの日常が震えだす──どの男が犯人かわからないまま絶妙な場面転換に従って各地の人間関係の変容を読み進めるうち、気づけば登場人物たちと同じく、私もまた信じることの意味について自問自答していた。 相手を信じきれるかどうかは、突きつめれば、そう信じている自分を信じられるかという問いになる。自分の身を賭すぐらいでなければ、信じきることなどできないのではないか。だから、それとは違う立場の他者や社会に対しては怒りがこみあげる。自分を信じていなければ、本物の怒りも湧いてこない。怒りとは、つまり、自分を信じている証しなのかもしれない。 信じることの難しさと、尊さ。この小説が突きつける問いは禍々しく、ヒリヒリするぐらい切ない。