九十歳。何がめでたい
佐藤愛子のエッセイ集『九十歳。何がめでたい』の魅力は、このタイトルに集約されている。次のような文章を読むと、そう思う。 〈ああ、長生きするということは、全く面倒(めんど)くさいことだ。耳だけじゃない。眼も悪い。始終、涙が滲(にじ)み出て目尻目頭のジクジクが止らない。膝からは時々力が脱けてよろめく。脳ミソも減ってきた。そのうち歯も抜けるだろう。なのに私はまだ生きている〉 病院の待合室へ行くまでもなく、日本には病を抱えた長寿の人々があふれている。認知症への不安は消えず、介護の問題もつきまとう。昔から寿(ことほ)がれてきたとはいえ、いったい長生きの何がめでたいのか、当事者である佐藤は困惑している。思えば、82歳で逝った私の母も同じようなことをこぼしていた。 しかし、佐藤の戸惑いは歯切れがいい。自他ともに認める猪突猛進の人らしく、テンポよく、しかも怒気をはらんで嘆いている。怒りにかられた猛進は時に彼女を難局に直面させてきたが、一方でその災難を突破する力にもなってきた。そうやって90歳代を迎えた人の、経験に裏打ちされた言葉がこのタイトルなのだ。上品ではないが、潔い。 佐藤ならではの怒気と潔さは、個々のエッセイにも満ちている。「いちいちうるせえ」などはその白眉で、正論をかざしてあれこれ細かく文句をつける世相に怒った末に、そんな自分を〈ヤバン人〉と認めてしまう。そして、〈闘うべき矢玉(やだま)が盡(つ)きた〉からとエッセイの連載を終了する。 おそらく多くの読者は、佐藤の「潔い野蛮」に魅せられているのだろう。やはり、文は人なりである。
週刊朝日
12/1