千住仲組停留所から撮影。質実剛健な橋を自家用車、大型トラック、都電、路線バス、自転車などがひしめき合っている(撮影・諸河久:1968年2月23日)
千住仲組停留所から撮影。質実剛健な橋を自家用車、大型トラック、都電、路線バス、自転車などがひしめき合っている(撮影・諸河久:1968年2月23日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、日光街道の難所「千住大橋」を渡り北千住に向う都電だ。

【いまの「千住大橋」はどれだけ変わった!? 50年が経過した現在の写真はこちら】

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 高度経済成長期を象徴する代表的なものといえば、国産自家用車だろう。1955年、当時の通産省が「国民車構想」を発表し、1960年代には自家用車が爆発的に普及した。今回の写真は1968年撮影。すさまじい勢いで成長を遂げていた東京を象徴する一コマだ。

 写真の都電は、1927年12月に竣工した隅田川に架かる「千住大橋」を渡り、北千住方面に向う都電21系統。ご覧のとおり橋上を大型トラック、路線バスから自転車までがひしめき合って通行している。車が都電の軌道敷に乗り入れても、片側二車線がやっと確保できる狭さだ。千住大橋に都電が走っていた1960年代は、首都高速道路や東北自動車道路はまだ未整備。したがって、北千住から先の埼玉県、栃木県を経て東北方面へは、この日光街道(その先の奥州街道も含む・国道4号線)は唯一のルートであったので、道路交通の隘路(あいろ)となった千住大橋の混雑度がうかがい知れる。

■“安全地帯”が居心地の悪い場所

 まるで道路の真ん中で撮影しているようにも見えるが、実際には都電の停留所から写している。千住大橋北詰の千住仲組停留所から200mm望遠レンズを装填した一眼レフカメラで、千住大橋の古典的なトラスを背景にした都電を狙った。むしろ、「安全地帯」とも呼ばれた停留所が、いかに車に挟まれた居心地の悪い場所だったかが推察できるだろう。

現在の千住大橋付近。撮影時には渋滞はなかった。写真左側の架橋が都内へ向かう上り専用として運用されている(撮影/井上和典・AERAdot編集部)
現在の千住大橋付近。撮影時には渋滞はなかった。写真左側の架橋が都内へ向かう上り専用として運用されている(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

 21系統の都電はこの千住仲組行きなのだが、乗務員が早手回しに折り返しの行き先の「三ノ輪車庫」に方向幕を変更していた。ここから三停留所目が21系統の終点、北千住四丁目だった。橋上には30台くらいの自動車が写っているが、トヨタ・カローラやコロナ、日産・サニーなどの国産ファミリーカーが普及した時代でもあった。

 下り車線には東武鉄道の路線バス「西新井大師」行きも渋滞を縫うように走っている。往時は数系統のバス路線が千住大橋を経由していたが、現在では都バス「草43」系統(浅草雷門~足立区役所)が唯一のバス路線として千住大橋を渡っている。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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