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これぞ昭和の渋滞! 高度経済成長期の50年前「千住大橋」がここまで混み合った理由

連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」

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諸河久dot.#アサヒカメラ#鉄道
昭和42年6月の路線図。千住大橋界隈(資料提供/東京都交通局)

昭和42年6月の路線図。千住大橋界隈(資料提供/東京都交通局)

 重厚な佇まいを見せる千住大橋は、鋼タイドアーチ橋の構造としては日本最古のものだ。東京市震災復興局が震災復興事業の一環として架橋。橋長は91.6m、橋幅は24.2mで、石川島造船所の施行だった。橋銘板に「大橋」と書いてあるのは、数ある隅田川の橋の中で最古参の存在を示している。初代の「大橋」は1594(文禄3)年の架橋で、当初は隅田川に架かる唯一の橋だった。江戸期には何度も改架、改修が施行され、風水害時に一度も流失しなかった名橋といわれている。

■渋滞緩和のために新たな橋

 増大する自動車交通量を緩和するために1973年に下流側(写真左側)に隣接して新橋が架橋され、旧橋は下り専用、新橋は上り専用として運用されている。ちなみに、写真右側(上流側)にあるアーチ橋は東京都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋だ。

 千住界隈の日光街道に路面電車が走ったのは、千住大橋が竣工した翌年(1928年)7月で、東京市による北千住線として敷設された。戦前は千住新橋~土州橋に22系統として運転され、戦後の改編で21系統になり、千住四丁目を発して三ノ輪橋~上野駅前~岩本町~水天宮前に至る8917mの路線。高度経済成長期に入ると、自動車交通の増大により都電は次第に“邪魔者”として扱われ、撮影日の二日後となる1968年2月25日に千住四丁目~三ノ輪橋が廃止され、三ノ輪橋~水天宮前の短縮運転となったが、1969年10月25日で残存区間も廃止された。

 躍動感ある車列を写した一枚のなかに、心なしか都電だけが少し寂しそうに見える。

■撮影:1968年2月23日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数


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